わかってほしいと感じたら

わかってほしいと感じたら

自分が眺めているセカイは、
自分だけが見ることができる風景であり、
自分のしている体験は、 自分だけが、味わうことができるモノです。

誰も「僕」を生きられないし、僕も「誰か」を生きるコトは、できない。
自分の出会った体験や、出来事の素晴らしさ、
その意味や意義を、 知ることができるのは、自分だけ。

だから、自分の体験が、どんな手触りで、 どんな匂いがして、
どんな味わいだったのか、 どんな学びを、どんな気づきを残してくれたのか、
それは、自分にしか、わからない。

どんなに説明しても、どんなに懸命に伝えても
その暖かさや、その輝き、時には、その冷たさや、苦しさも、
自分にしか、わからないのです。

きっと、自分にとって特別な体験や、大切なコトほどに、それは難しい。
それでも、僕らは、どうにか、それを伝えようとします。
自分のリアリティを、わかって欲しいと思う。
自分の見ている世界を、同じ様に、見て欲しいと思う。

そのために、言葉を尽くす。

それは、とても人間的な光景であり、美しいモノなのかも知れません。
その願いから、新しい関係性が生まれてくることもあるでしょうし、
理解し合う喜びは、僕らの人生における最高の瞬間の一つかも知れません。

でも、それは、時に、苦しみを生むこともあります。
「どうして分かってくれないの?」 そう口にする時、
僕らは、とても寂しくて、とても歯がゆい。

そして、自分の大切な体験を話す時ほど、 その無理解や、誤解が、気に障る。
「完全に理解してもらった!」なんて思っても、
それは、いつか「やっぱり、わかってもらえない」に変わってしまう。

僕も、そんなコトを、感じることがあります。
分かって欲しい、ちゃんと理解して欲しい・・・
そんな、強い思いに、打たれることがある。

そんな時、ふと「自分が、自分を、ちゃんと分かってあげてない」
ということに気がつくのです。

自分の感覚や、自分の経験に、自信がなくて、不安な時
僕らは誰かに担保して欲しくなる。
「それでいいよ」と言って欲しくなる。

「わかってほしい」、「理解してほしい」と狂おしく思う時ほど、
僕は、心のどこかで、それを、疑っているんです。
「わかってほしい」というのは、自分から自分へ向けたメッセージ。

「自分の感覚を、自分の感情を、
自分が体験しているリアリティを、信頼しなさい!」
という、メッセージです。

自分の中にある、自分への疑い、自分の感性への疑念をクリアにした時
きっと、誰かに分かってもらう必要も、理解してもらう必要も、
もはや、なくなってしまって、僕らは首を傾げます。

「僕は、どうして、あんなにも、わかって欲しかったんだろう・・」

「自分の感覚、自分の感情、自分の理解」を信頼すること。
自分のリアリティを、自分が感じ取った自分のセカイを、
まず自分が大切にすること。

自分は、こう感じたんだな。そう思ったんだな。
それだけでいい。
そこから、はじめてみましょう。