サメに食べられたら、本望?

サメに食べられたら、本望?

昨日、会社に勤めていた頃の同期と久々に会った。
彼女は、とてもユニークな人で一目置いていたのだけど、
また、ひとつ、教えてもらったので書き残しておきたい。

趣味がダイビングだと聞いた僕が
大きなサメが来たら怖くないのかと尋ねると
彼女は笑いながら
「全然、怖くないよ。怖いのは、運命に、身を委ねていないからだよ。
私は、道を歩いている人の方が、むしろ怖いと思う。
変な人に殺されるより、大好きなサメに殺された方が、ずっと良い。
サメに殺されるなら、本望。」」
と応えた。
さも当然でしょ?という様な口ぶりが、おかしかったのだけど、
僕は、なるほどと深くうなずいてしまった。

ここに述べられているのは、とっても重要なコトだ。

身を委ねていない時に起こる感情が、「恐れ」であり「怒り」。
運命に抗えば「怒り」となり、それを忌諱すれば「恐れ」となる。

恐れるのは、「委ねていない」ということ。
委ねていないのは、握りしめているということ。
大きな運命の流れに抗って、その潮流を信頼していないということ。
だから、必死で、頼りない命綱を握っている。

僕らが、手放せないのは、信頼していないからだ。
「そこで、自然に起こること」を信頼していない。
「そこで、自分が、自然に起こすこと」を信頼していない。

必要なコトは、ただ、委ねることなのだ。
運命は、ちゃんと、転がっていく。
大河の中で足を踏ん張ったって、大した抵抗はできない。
だから、大河の流れにのって、どこまでも行けばいい。

タイミングを信じれば、やきもきなんてしないし、
その結果を信じれば、イライラも、恐れたり、心配になったりもしない。

委ねることだ。
「サメに食われて死ぬのなら、それは、本望だ」
そう思うこと。そう思える場所で、そう思えるコトを、すること。
それを、人生にすること。

愛への執着を捨てた時、
僕らは、本当の愛を知るだろう。

孤独への恐れを捨てた時、
僕らは、絆を手にするだろう。

生への執着を捨てた時、
僕らは、本当に、自由な生を見つけるだろう。

僕は、一生、サメを見るたびに、
このエピソードを思い出すのだろうな。