善意

愛と、そこに付着しているもの

愛とは何か。そんな問いを受けて、考えている。 そんな思考の記録。 「いつも自分が愛に囲まれていた。愛されていたんだ!」その気づきは、必ず、どこかで訪れるモノ。 許せなかった自分がいただけ。認められなかった自分がいただけ。本当は、そこに愛があった。 それは、感情の大きな発露を伴う、劇的な経験だったりする。一夜で世界がまるで違って見えることもある。それは、素晴らしい体験にちがいない。 しかし、今日は、 […]

善意の暴力から、愛と支援へ

自分が、誰かに対して・変えてあげなくちゃ!理解させなくちゃ!教えてあげなくちゃ!と感じたする。 そして、相手に色々な働きかけを行う。叱咤し激励し、説得し、用意し、世話をやく・・・ それは、・その人がより良い状態になれるように・より安全な道を行けるように・失敗しないように・より幸せになれるようにという「善意」から生まれてきてるよね。 とくに、親という立場や、指導者という立場に立つ時、僕らは、熱意に燃 […]

支配的な関係を、支援的な関係に変える

2013年6月に書いた文章。思えば、この夏から本当の探求の旅が始まった。もう一度、自分のこと、自分の作ってきた関係性、自分の心のこと、毎日毎日考え、言葉にし、記録していた日々。高田馬場の日の当たらないマンションの一室で、暮らしていたあの日々のこと、あの美しい日々のことを、僕は昨日のことのように思い出す(2021年12月 記) + + + ここのところ、色々な出会いや、きっかけから新しい風景が見えて […]

支援的な関係

人を応援すること、人をサポートすることそれは、その人が、「その人の決めた幸せを、その人の決めた方法で手にすること」を支持することです。それは、時に、「許容」に近い。 ともすると、僕らは、相手に「相手が、自分(僕)の決めた幸せを、自分(僕)の決めた方歩で手にすること」を期待します。 自分の方が、良く知っている、自分の方が、経験がある。だから、「こうした方がいい」「こうすべきだ」「こうなったほうがいい […]

酸っぱいブドウの木の下で(2)

前項では、ルサンチマンという心の仕組みを見てきました。後編では、「ルサンチマンからいかに自分を解放するか」をテーマに書いていきます。 「ブドウを食べたい」をこじらせたキツネくん、彼は、自分が決めた「ブドウは食べてはダメ」ルールのせいで、一生、ブドウの恩恵から遠のくことになります。 しかし、本当は「食べたい」わけですから、そんな自分の心を見ないために必死の努力を始めます。すなわち、いつもブドウの木の […]