許すも、許さないもない。

許すも、許さないもない。

許せば全ては変わるとか
許せば楽になるとか、よく聞きますよね。

僕もよく書いていたし、少し前の投稿も
それを結びの言葉にしていたのは記憶に新しい。

けれど、気が付いたんです。
それ、嘘なんです。

許したこと、ないんです、わたくし。

なぜかというと「許しようがない」のです。
一昨日書いた、パートナーのカバンの中に、
じゃら錢とパンツと謎のクリームが混在している現象
に出会うのを、日々楽しみにしている状況に、
「許し」なんて入り込んでないんですよね。

つまり、「許そう」としている時点で、
ズレてるってことです。

許さない= 嫌いな食べ物を、拒否する。
許す = 嫌だけど、食べることにする。

これ、まったく意味がないですよね。
正解は、好きになっちゃうこと。
その食べ物、好きになっちゃったら
「許す」と「許さない」は、もはや無意味。

嫌いな人を好きになるなんて不可能だ
という方もいると思いますが、それは違います。
嫌いなモノって、本当は気になって仕方ないもの、
心の底ではあこがれているモノなので、
それを認めてしまえば、「好き」へと反転します。

それでも、許すという言葉を使うのであれば、
「許可」というのが近い気がします。
「OK、認めちゃおう!」って感じ。
本当は、それやりたかったの!
けれど、恥ずかしくって認められなかったの!
って感じ。

「許すこと」を
「嫌いなモノを受け入れる」イメージで使っていると、
それは地獄ですね。

「嫌いなモノを、嫌いなまま、受け入れる」
なんて無理・不可能・不必要。
「嫌い」を固定している限り、永久につらい。

だから、誰かを「許そう」とした自分に気が付いたら、
まず、自分が見つけた「その人の罪」に目を向けること。

「裁判長、あの人は、何の罪でしょう?」
「怠惰!」

すなわち、あなたは自分に怠惰を許していない。
だから、自分の中にある、もっとのんびりしたいという欲求に気が付いて、
認めていく。それを自分に許可していく。
すると、ゆっくり過ごしている人が、好きになる。

ほら、好きな人を、許しようにない。
僕らは、許すなんて高慢なこと、できやしないんです。

「あなたのこと好き」、「自分のこと好き」それだけ。
残るのは、それだけなんです。