不安を超えて、世界に橋を架ける。

不安を超えて、世界に橋を架ける。

不安や恐れというのは、ネガティブな感情だと思われているけれど、
実は、そうではない。
不安や恐れは、「自分が何を信じているか」を教えてくれるメッセンジャーとして、
大変重要な機能を持っている。

不安や恐れを感じるというのは、
自分にとって望ましくないことが起こることを想定しているわけで、
①その想定(自分にとって望ましくない現象、恐れている状況)を自覚する
②それが、本当に恐れるにたるものかを点検する
というプロセスを通じて、自身の内なる限界、
自分に課している制約から自らを解き放っていくことができる。

すなわち、不安や恐れに対して、最も合理的な態度は、
「歓待」だと言える。
それを自覚し、認めることからすべては始まる。

逆に、最も非合理かつ危険な態度が、「否定」。
不安や恐れがないように振舞うこと、
それを打ち消すに足る刺激や物語を使って、抑圧することは、
破滅的な結果をもたらすことが多い。

不安や恐れが大きいほど、
それを否定し打ち消すために必要な刺激や物語は大きなモノになる。
その刺激や物語は、特別なモノというわけでないし、
何かが不安や恐れを打ち消すための道具だというわけでもない。

この世界にある、あらゆることは、そのために使えるというだけ。
時にそれは、アルコールでありドラッグだ。
時にそれは、仕事(ワーカホリック)であり、趣味であり、人間関係だ。
時にそれは、ヨガであり瞑想であり、占いであり、宗教であり、ヒーリングだ。

使われる文脈によって、それは「気づきの方法」にも「回避の方法」にもなる。
不安や恐れから逃げるために使われる時(=回避の方法として利用される時)、
あらゆる物事は、あらゆる方法論は、依存性・中毒性を持つ。
そして、実行するほどに自己分離へと進み、様々な破綻が訪れることになる。

イデオロギーや信じる世界観というものも、
同じように、自分の中の不安や恐れを見ないようにするための
道具として受容される時、
人は、それを過剰に評価し、信望するようになる。
そして、それを否定する言説や、人に対して、攻撃的になる。不安や恐れが大きいほど、その解消に必要な物語は大きなモノになる。

すべての不安や恐れ、懸念を「包括的・同時的」に解決してくれる
世界観が求められる。
この世のすべての問題には、自分に不安や恐れを与え、
無力感を与える「共通の原因」があり、
それを解決すれば、すべてがうまくいくといった物語だ。

この「共通の原因」というのは、
問題が多ければ多いほど、大きければ大きいほどに、
比例して、強大で凶悪な存在であることを、求められる。
これは論理の経済が導く必然だ。
(だって、ありとあらゆる問題を、引き起こせるだけの
パワーがあると前提しないと話が破綻してしまうから)

さて、現在という時代は、不安や恐れを感じやすい問題にあふれている。
環境問題、経済の問題、戦争、貧困・・・このような時代には、
それらを「一括で解決する話」への需要が高まる。

すると
・すべての問題に共通の原因
=すべての問題を引き起こしている悪が存在し、
・その悪を倒すための戦いに馳せ参じよう
という言説の説得力が増す。

これは、人類がさんざんやってきたことだ。
ある日、諸悪の根源は、「資本家」だった。
ある日、諸悪の根源は、「信仰心を失った民」だった。
ある日、諸悪の根源は、「権力者」だった。

そして、その戦いの果てに、人類はようやく気が付いた。
「悪」などないのだと。
「悪」というのは、自らを善だと自認する思想が、
自らに不安や恐れを与える存在に与えた名でしかない。

善と悪の物語をつくり、その悪を打倒するという方法論では、
決して、求めた場所にたどり着けないのだと。

そして、ようやく、
・身の不安や恐れを外に投影して作った「悪敵」との闘い
を辞め、 自身の中にある不安や恐れそのものを解消することで、
「悪」も「敵」も解消していくこと へと意識を向けるようになったわけだ。

もちろん、これは世界に目を向けないことでも、問題から目をそらすことでもない。
むしろ、積極的に世界との関係性を、リデザインする方法論だ。

わからないものや複雑なものを、
自分の不安や恐れのフィルターによって
自分の都合のよい物語へと「回収」する暴力的な方法論から、
わからないもの、複雑なものを、そのまま受け入れる方法論、
多様性を包括し、未知を可能性として感受する方法論へ。

それは、世界に友愛の橋を架けること。

自分の価値観や信念で作り出した防壁の中で
壁の外側=怖いモノ=悪・敵 と戦うことをやめ、
ゲートを開き、自分の世界に到来する未知を歓待すること。

そこへの道のりは、簡単ではない。
丁寧に、丁寧に、それぞれが、自分を見つめていくこと以外にないから、
とても地道で、時間がかかる。

すぐに世界の貧困がなくなることも、経済格差が解消することもない。
支配者や始祖を倒せば、すべてが解決することもない。
けれど、この幸せな人、自由な人、他者を受け入れ、肯定する人、ありのままを許し、愛する人、
不安と恐れに、不安と恐れを持つ人にそっと寄り添うことができる人を、
増やしていくこのプロジェクトは、静かに世界を変えていくだろう。僕らの歩調と共に、ゆっくりと、しかし、確実に。

思い出して欲しい。30年前、20年前、10年前。
ここに書かれているような話はごく一部の人のためのモノだったけれど、
今、多くの人が、それを理解している。
生まれてきた若い世代は、明らかに、競争から協奏へと舵を切り、
ありのままで生きることの大切を、理解している。

人類は、確かに、前に進んでいる。

今、僕らにできることは、危機を喧伝することでも、
真実を見極めることでも、敵を見つけて批判することでもなく、
まず、「自分といる」ことだ。
どれだけ世界と分かたれても、自分が自分と分かたれることはない。
その不安に、恐れに、怒りに、喜びに、悲しみに、
その命に、丁寧に触れること。
何が起きたかではなく、
その出来事に対して、自分の中に何が起こったのかに目を向けること。
騒がしい世界の中では聞き取れなかった、自分の声に、耳を澄ますこと。

僕ら一人一人が、自分の世界を変える時、世界との触れ方を変える時、
それが、ほんのわずかな変化であっても、
その小さな波紋は重なり合って、大きな波へと変わっていくだろう。

アフターコロナ、世界はきっと、少し優しく、少し暖かな場所になっているはずだ。
僕は、そう確信している。