愛と、そこに付着しているもの

愛と、そこに付着しているもの

愛とは何か。
そんな問いを受けて、考えている。

そんな思考の記録。

「いつも自分が愛に囲まれていた。愛されていたんだ!」
その気づきは、必ず、どこかで訪れるモノ。

許せなかった自分がいただけ。
認められなかった自分がいただけ。
本当は、そこに愛があった。

それは、感情の大きな発露を伴う、劇的な経験だったりする。
一夜で世界がまるで違って見えることもある。
それは、素晴らしい体験にちがいない。

しかし、今日は、ここから、少し進んでみたい。

最近感じたのは、
「自分が愛されていたのだ」と、「気がついた(と口にする)」人たちに、
時々起きる、共通のある傾向。

それは、
「愛されているのに、それを認めないあなたは、足りていない」
と言いだしてしまうということ。

そして、さらに
「あなたは、なぜ、私の愛を、愛だと見なさないのか?」
なんて言葉へとつながる。

・・・この辺りにくると、お・・・この人、なんか違う・・・とわかる。

結論を書いてしまえば、そこにあるのは、
「あの全てを、愛だったと思いたい」「あの全てが、愛だったと信じたい」
ということなのだと思う。

ここまで考えて、僕は、ふと気がついた。
そうか、全ての行動の源泉は、愛だ。
あらゆる関わりの最も深いレベルに、愛がある。
つまり、人がつながり、人が出会う場所、全てに愛はある。
それは、きっと事実なのだ。

なお、ここでは、愛という言葉を、「無条件の肯定」という意味で、使っている。
一切の否定が入っていない、完全なる肯定。純粋なる肯定のエネルギー。

さて、しかし、
愛の「上」には、他のモノが乗っている。
嫉妬、支配、エネルギーを奪いたい欲望、怒り、恐れ・・・が、乗っているのだ。

問題は、その全てをひっくるめて「愛」と呼ぼうとすることにある。

例えば、
お母さんに怒られたこと。

そこに、きっと愛はあった。
今思えば、子供を思う、お母さんの切なる想いがわかる。
だけど、その事実と、「ひっぱたかれて、傷ついたという事実」は、まったく別のことだ。

確かに、一番下に「愛」はある。
だから、愛されていたというのも事実だけど、
上に乗っていたモノが、自分を傷つけたというのも事実なんだと思う。

単純に言えば、やっぱり、殴られたら、痛かったし、怖かったということだ。
それを、「愛」だとどれだけ感じようとしても、
身体は、傷ついている。

だから、傷ついたという事実は、否定しなくていい。
それを、無理やり「愛だった」へと回収しなくていい。

愛があったと気付くということは、
一番下に、愛が伏流していたことに気がつくこと。
それで十分なのだ。

逆に、それを「全部まるめて愛へと回収しようとする」のは、
上に乗っていたモノによる「傷」を見たくないからなのだ。

傷を見たくない時に、僕らは、それは愛だと思おうとする。
束縛を、暴力を、嫉妬を、犠牲を。

その時、僕らは、不寛容になる。
束縛や暴力に、傷ついた人に対して。

その不寛容の下に、愛はあるだろう。
だけど、その不寛容は、また、人を傷つけていくだろう。

僕は、傷つくこと、傷つけることに、あまりに敏感だろうか。
あまりに過剰に、反応しすぎだろうか?

うん、僕のテーマは確かにそこにあるだろう。
しかし、改めて思うこと。

それは、僕は、愛でつながりたいなってこと。
傷つけ合うのではなく、自分と相手のそのままを、ただ認められたらいいなって思う。

だって、そうやって繋がった時に生まれる関係、
本当にありのままで触れ合える関係が、
いかに美しいモノか、いかに暖かく、勇気をくれるモノか、僕らは知っているから。

愛の上にあったモノで、自分が傷ついたのなら
その傷ついた自分を、まず認めるしかない。
それが、ただの誤解に基づいたモノだったとしても、傷ついた事実は消えない。

だから、それを、ただ、認めていくことしかないんじゃないかな。
そうか、自分は傷ついたんだなって。

そういう立場に立つと、
「人が、傷つくこと」を認められるようになる。
「人が、愛を受け取れないこと」を認められるようになる。
自分の想いが受け取られないことを、許せるようになる。

その許しの中で、僕らは、きっと
本当に、愛でつながる関係性へと、進んでいくのだろうと思う。