敵と生きるか、愛と生きるか

敵と生きるか、愛と生きるか

「敵と生きるか、愛と生きるか」

上司とのミーティング、顧客への応対、販売店との交渉、
契約手続き、役所での手続き、夫への相談・・・

あなたの相手は、どんな存在だろう。
そこで、あなたは、何を目的にコミュニケーションを取っているだろう。

・うまく、自分の意見を通すこと、採用してもらうこと。
・相手の無理な注文を、退けること。
・自分の立場を、守ること。
・相手の機嫌を損ねないこと。
・より良い条件を勝ち取ること。

もし、そんなコトが浮かんでくるのなら、
あなたが、前にしているのは、「敵」である。

気を抜くと
自分の可能性を抑圧するもの、
自分の権利を侵害するもの、
自分の活動を妨げるもの、
困らせるもの。

それを「敵」と呼ぶ。

無意識に、僕らは、相手を「敵」にしていないだろうか。
人を、自分の利益を、可能性を奪うもの・・・と定義した時、
自分に向かうすべてのアクションは、「攻撃」であり「侵害」になる(見える)。

敵を前にすれば、当然、僕らの態度は防衛的になる。
かしこまり、つけ込まれないようにと硬くなり、反撃姿勢を取る。
我をはったり、論理武装したり、強く出たり・・・
逆に、同情をもらったり、攻撃を受けないように、弱者を演じたり・・・

その態度に、相手は正しく反応する。
相手は、そのガードを超えるために、より攻撃的になり、
防衛的になり、強い力で向かってくることになる。

・敵と定義することで、僕らは戦闘態勢をとり、その態度が実際に、敵を生む。

つまりは、定義の問題なのだ。
「外部の要因によって、自分の可能性が阻害される」
この物語を採用している限り、僕らは、永久に「敵」と生きることになる。

さらに、敵は、「人」だけでない。
自分に、悪い影響を与える(と決めた)外部、全てである。

・夏だから、だるい
・病気だから、~できない
・相手が頑だから、話が通じない
・背が低いから、モテない
・相手がグズグズしているから、イライラする
・無礼な態度に、怒る

全て、自分の外部を「敵」としているということだ。
季節を、病を、頑な相手を、自分の身長を、相手の態度を
「自分に害を与えるもの、自分の可能性を拒むもの」と定義している。

そう定義した時、僕らは、本当にネガティブな影響化に置かれる。
病いを、治すべき悪者とした時、僕らは、そこから「悪影響」だけを受け取る。
自分の人生の課題を、解消すべき問題と捉えたとき、
僕らは問題に飲み込まれてしまう。
即ち、「自ら進んで、外部に支配される」のである。

さて、もうここまでくれば、
ここから描かれる理路は、明確だろう。

そう、敵だと定義しなければ、僕らは、何からも攻撃をされない。
自分の可能性を制限されるコトは、ないということだ。

では、自分の外部(人・もの・こと)をどう定義するのか。
自分自身の可能性を拓いてくれるモノだと定義するのだ。

・自分の外部を、自らの可能性を、拓かせてくれるモノとして定置すること。

それによって、僕らは、全く異なる地平に生きるコトになる。

自分に与えられた、全ての環境、条件、出来事を、
自分の新たな機能を、役割を、創造性を見つける契機として生きる。

人も、環境も、出来事も・・・そして、自分の過去も、
全てを、自分自身の可能性を拓いてくれるモノと定義する時、
僕らの目の前から、「敵」は消失する。
それは「◯◯のために、××できない」という因果論の卒業を意味する。

そして、変わりに、そこに現れるのは、「師」である。
自分自身の可能性を解き放ってくれる、外部のことを、「師」と呼ぶ。
そして、「師」に対する、態度を「愛」と呼ぶ。
愛とは、外部に対し、自らを拓いていく態度だ。
相手を肯定し、そこに向き合う自らをも、肯定する態度だ。
愛とは、存在の肯定である。

全ては、ただ、僕らを拓くためにある。
何もかもが、自らを導く「師」として仰いだ時、
残るのは、愛と感謝しかない。

「敵と生きるのか、愛と生きるのか。」
外部に「咲かせてもらう」のか「制限されるのか」。

それは、ただただ、
自らが、自らの目の前の世界を、いかに定義するのかに、懸かっている。

この出来事は、自分に何をもたらしてくれるのだろう。
この出会いから、自分は何を学ぶのだろう。
そう問う時、きっと僕らは、外部に拓かれていく。どこまでも。

最後に自分のコトを。
この文章は、あるきっかけで、書くことができた。

最近、珍しく、ある人と、小さなモメごとを起こしてしまい、モヤモヤとしていた。
そこで、相手の態度が、とっても防衛的なことが目についた。
つまり、相手にとって、僕は厄介者で、問題児。
即ち、「敵」だったわけだ。

もちろん、その中で、僕は、相手のことを「厄介」だなーと思った。
めんどくさい人、うるさい人・・・即ち、「敵」と認定したのだ。

いや、それは正しくない。

僕は、そもそも、相手に防衛的に対応していたのである。
相手に対して、「うるさそうな人だから、距離を置いて、良い子にしてよ~」・・・
という態度で、コミュニケーションをスタートさせた。

結局、それが、裏目に出て、炎上である。

それで、僕は、無意識に自分がとってきた、
人に対する態度に気がつくことができたのである。

敵と生きるか、愛と生きるか。
僕は、愛に生きるコトを、選択したいなーと思う。

だってね、僕の周りにいるのは、本当に、僕の可能性を拓いてくれた、
僕のコトを支え、信じてくれた素敵な仲間達なんだから!