乳房とミルクと赤ちゃんの口

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赤ちゃんがお母さんのおっぱいを吸いながら
至福の瞬間を味わっている時、
そこにあるのは、一続きの「機械」です。

・・・乳房ー乳首ー唇ー舌ー喉ー胃・・・

乳房は、赤子の口と連結されることで「意味」を持ちます。
赤子の口を除いた「授乳」は存在しません。
この瞬間、母子はひとつの「機械」として
一続きの文脈(コンテキスト)を形成しています。
乳房は授乳の「ための」道具です。

・授乳機械=・・・乳房ー乳首ー唇ー舌ー喉ー胃・・・

同じ乳房ですが
愛しき人の手の中にある時、その「手」と一続きの機械となります。
 
・愛の機械:・・・乳房ー掌ー腕ー肩・・・

また、赤子の口は、時に、母親の耳と一続きの機械を形成します。
物理的な距離はありますが、それは無線LANみたいなモノですね。

・警報機械:・・・声帯ー口ー鼓膜ー脳・・・

「モノ」というのは、文脈別に存在しています。
文脈が変われば、その意味が変わってくる。
そして、大事なのは、「機械」は、
人と人の間で切断されているわけではないということです。
その瞬間は、「一連」のモノなんです。
ひっくるめて「1(”一”なるもの)」なんですね。

僕らは、常に、外部と接続され、「一つの機械の一部」として存在します。
人との出会い、出来事との遭遇、記憶の想起・・・

それは、「人」と「出来事」と「記憶」と合体して、
ひとつの「機械」を創るコト。
僕らは、独立した存在として「在る」コトはありません。
常に、どこかの機械に接続され、その機械の一部として役割を担います。

「僕らの内部と外部」という言葉すら、本当は、ナンセンスです。
「僕」という存在は、どこにある?
あるのは、一連の機械だけ。

本当は、「東京都」などなく、一続きの大地が広がっているのと似ています。
ある一つの視点を持って、便宜的に土地を切り分けた様に、
一続きの機械の中で、便宜的に、一つのまとまりを切り分けただけ。
「ワタシ」と僕らがいつも呼んでいるのは、そんな便宜的なまとまりのコトでしかないのです。

あるのは、常に接続され、切断され、また再接続されていく
一続きの機械と、その瞬間にだけ存在する、「◯◯機械」だけ。

だから、「私」というのは、確定的なモノではなく、
その瞬間、瞬間の関係性(機械のつながり方)によって
変化する動的なモノだということです。
だから、「あなたの前での私」と、「あの人の前での私」は、
異なる機械につながれ、異なる役割を演ずる、異なる私、として、生成されるのです。

そして、「あなた」も「わたし」も、常に変化しているわけですから、
一度作られた機械は、未来永劫二度と存在しないということです。
即ち、僕らは、いつだって、その瞬間に、目の前の現象に呼応するカタチで、
一回きりの「私」として誕生しているんです。

その瞬間に、まったく新しい私、これまで、一度もセカイに具現化したことのなかった
「私」が、誕生している。
僕らは、都度、まったく新しい自分を立上げながら、今、この瞬間を生きている。

僕らは、常に、ひとつの現象を創り出す、ひとつの契機です。
そして、同時に、その現象によって、その都度創り出される存在です。

「私は、現象を創り出す瞬間に、自分を創り出す」というコトです。

機械がまずあって、私があるわけではない。
なぜなら、私がないと、機械は存在しないんだから。

「赤子がいない授乳」・・・は、ナンセンスですよね。
授乳が成立するためには、赤子が必須。
だけど、授乳という行為ソノモノが、
「授乳されるモノとしての赤ちゃん」を創り出すということです。
その瞬間に、「授乳という行為」と「おっぱいを飲む赤ちゃん」という存在が、
この世の中に、同時に生まれる。

ポイントは、
・私は、セカイによって、その都度、その瞬間に、生成されるモノだということ。
・セカイは、私によって、その都度、その瞬間に、生成されるモノだということ。
ということです。

僕らは、その瞬間瞬間、まったく新しい私が、まったく新しいセカイを生きる
という構造でしか、このセカイに存在しないということです。

今ここに、同時に、ワタシと世界が生まれる。
その次の瞬間、また異なる、ワタシと世界が生まれる。

「ワタシ」というのも「セカイ(体験)」というのも、
固定的なものではなく、常に、相互作用を繰り返しながら
増殖し、つながり、切断し、ひとつの有機体として、都度、やわらかに、そこに生誕する。

僕らは、いつもそれが、自明なモノ、ワタシはワタシと考えているけれど
それは、ファンタジーだということです。これは、思弁ではありません。

僕らの、信じる「ワタシ」というパーソナリティは、
時間的にも、空間的にも、常に、越境し、伸び縮みし、
消失と創造を繰り返す、動的な存在だということです。

この事実が意味しているのは、
私たちは、常に、

・まったく新しいセカイにおいて、まったく新しい自分を生きるチャンスを生きている

ということです。
ワタシの過去とは、原理上、今のワタシとは関係がないとさへ、言える。

今、あなたが、何者であるか。今、自分が、いかなる存在であるか。
それを、僕らは、都度、決めているんです。
今、今、今、僕らは、決めている。
今、今、今、僕らは、生まれている。

この事実は、僕らの「生きる」、「自分」、「関係性」といった
感覚を、書き換えていきます。

この話は、僕のアイデアではありません。
こんなアイデアを発明できたら、今頃、世界の名だたる賢人の一人に
数えられているでしょう。

「赤子の口は・・」というのは、
ドゥルーズ/ガタリ という2人の精神科医・哲学者が書いた
「アンチオイディプス」という名著の出だしに描かれています。

もちろん、ドゥルーズ/ガタリが発明した話ではありません。
この話は、様々な場所で、太古の昔から、様々な賢人が語り続けてきたテーマです。

皆さん、このアイデアを使って、セカイを見てみてください。
きっと、何かが見えてくる。
・・・ここから先は、おまかせします。