人生とは、真理を学ぶ旅路

人生とは、真理を学ぶ旅路

豊かになるため、幸せになるため、夢を実現するためのノウハウが巷に溢れています。
確かに、豊かで、幸せで、自由なハッピーライフの実現は、
人生の大きな目的であろうと思います。
しかし、僕は、人生とは本当に「それだけのモノ」なのだろうか?と感じてきました。

僕にとって人生とは、真理を学ぶ旅路です。
 生きるとは何か、愛とは何か、善いとは何か?
 自分はなぜ生きていて、人はなぜ存在しているのか?
 自分が生きる目的は何か?
というような根本的な疑問に、自分なりの答えを探していくこと、

より本質的なモノに触れ、より深い理解へと降りていくこと。
深い山道を登りながら、ふと視界が開けた時、これまでは、まったく見えなかった風景が広がる。
これまでの考え方や、知識を超えたモノ、自らを超えたモノとの出会い。
ひとつ深い真理を見つけた時、僕らは新たな視界を手に入れるのです。

もちろん、最終到達点としての「唯一無二の絶対真理」などというものがあるかどうか、それは不明です。「ない」と宣言することすら、できない。ましてや「ある」なんて。
しかし、その絶対真理の不在(不確定)は、僕らの学びの道を妨げるモノではありません。
僕らの知性は、常に越境し、絶えず伸張し、増殖していくコトを求めます。
それは、僕らの知性の根本性質と言ってもいい。

真理を見つけること・・・それは、僕らの魂が、僕らに課す、ミッションです。

僕らは、真理を知る喜びを知っています。
ひとつ深い真理を知った瞬間、僕らは空気が震えるのを感じます。
「わかった」「そうか」・・・その「気づき」が、僕らを牽引する。

その瞬間、僕らは、ひとつ深いレベルで生きるコトを開始する。
これまでのモノの見方、考え方、感じ方が変化し、異なる世界を生き始める。
それは、自らを解放することです。
より根源的な原理や真理を知った時、人は、小さなルールを手放すことができます。
いや、自分が小さなルールに縛られていたことを、はじめて知ると言った方がいい。

知とは、僕らを、解き放つためのモノです。
その結果、人生はより簡単で自在なモノへと変わっていくでしょう。
より豊かで、愉しいモノへとシフトしていく。
しかし、それは、二次生産物の様なモノ。副次的なモノです。

本当の目的は、世界をより深く知り、より本質的なモノに触れていくこと。
「自分」をより深く知り、より柔軟に、より深い場所から、世界を生きるコトです。

哲学的なセラピー(と僕が、勝手に呼んでいるだけですけど)は、
その目的を、「学び」に置きます。
自分の「本当」を探し、そこにアプローチしていく中で、
新しい世界観へとシフトし、生の意味を見つけ出していく。

それは「自分が生きる上で、とりあえずの目標を持ち、
わかりやすく人生を生きる」ということではありません。

真理に触れる感覚を研ぎすまし、自らが、絶えず自らの真理を決定しながら生きる決意、
自ら、自らの人生を引き受けていく覚悟をしていくコトです。

生きるコトを問う。

そこにこそ、圧倒的に面白い、冒険が待っています。
全ての出来事を、世界の本質をより深く知るための「ステージ」として使っていく。
その視点に立つ時、何もかもが、全ての出来事が、自分に向かって語りかけてきます。
全てが「シグナル」へと変わる。
そこに導かれて、僕らは、今日、昨日よりもひとつ深い世界を生きていくのです。