酸っぱいブドウの木の下で(1)

酸っぱいブドウの木の下で(1)

本当に、自分はやりたいコトをやっているだろうか。
誰しも、そんな感覚を持ったことがあるのではないでしょうか。

先日、こんな話を聞きました。
彼は、舞台ダンサー。
ある日、怪我をして、ベッドで寝ている間に
ホッとしている自分に気がつき、
本当にダンスが好きなのかわからなくなってしまいます。

彼の心に訪れたのは
自分は、公務員である両親への反発から、「自由な道」を選んだに過ぎないのではないか・・・
「自分は、本当にやりたいコト、やっているのか。それとも、反発から、それをやっているのか。」
という疑問です。

今回は、この問いを、現代哲学の祖、フリードリヒ=ニーチェの
「ルサンチマン」という考え方を使って、解いてみたいと思います。

《酸っぱいブドウ》
 木の上に美味しそうなブドウを見つけたキツネは、
 頑張って、ブドウを取ろうとしますが、どうしても届きません。
 そこで、キツネは、思います。
 きっと、あのブドウは、まだ酸っぱくて、美味しくないや・・・
 それに、ブドウを食べるコトは、良くないことかもしれない。
 虫歯になるかもしれないし、きっと身体に悪い。食べない方が良いんだ!!

皆さん、聞いたことがあるお話かもしれません。
キツネは、自分の「食べたい」という欲望が叶わない時に、
「ブドウは酸っぱかった」と、強がります。
さらには、「食べない方が、良い!」という、新しい「価値観(ルール)」を創り出します。

この「思いつき」によって、キツネが手にするのは「精神的な勝利」です。
・食べられる(勝利)ー 食べれない(敗北)
という図式を、
・食べない(勝利)ー 食べる(敗北)
へと、読み替えることで、彼は努力なしに、「勝利」を手にするわけですね。
これが「ルサンチマン」です。

ルサンチマンとは「ルールを逆転させることで、自分を敗者から勝者に変換する仕組み」のことです。
トランプの「大富豪ゲーム」の「革命ルール」みたいなモノですね。

このルール逆転現象によって、ブドウを食べられる「トリ」や「サル」や「リス」は、
「憧れの対象(勝者)」から「軽蔑するべき哀れな弱者(敗者)」に変わってしまいます。

ニーチェが警笛をならしたのは、
僕らが、何かを判断したり、良いコトや悪いコトを決める時に
このルサンチマンという心理作用が、強く働いている・・・ということでした。

例えば、
 ・自由であること
 ・ストレスも苦労もないこと
 ・豊かなこと
は、人間にとって、基本的には「気持ちがいいこと」です。

人間の意識と身体は、快楽・・・「最もニュートラルで、ストレスがない状況」を
求めて動いていますので、「気持ちがいい」ことに、自然に向かいます。

だけど、それが出来ない時、僕らは、
「出来ない方が、『善い』のだ」とルールそのものを、書き換えてしまう。
例えば、
 ・「忙しいのは良いコトだ!」とか
 ・「苦労は大切だ!」とか
 ・「清く貧しいことこそ美しい!」
なんてね・・・

僕らが信じている「価値観」や「常識」や「道徳」が
こんな風にして創り出されていったとすると、
都合良く造られた、「自分本位の価値基準」以上でも以下でもないことになる。

つまり、「常識」や「道徳」とは根拠のある「科学的・論理的な正しさ」ではなく、
自分たちが、「勝者の気分」を味わうための、社会装置に過ぎない。
・・・ニーチェは、この辺、かな~り手厳しい。
ニーチェは、ヨーロッパにおいて道徳が形成されてきた歴史を、
徹底的に調べ抜いて、そう結論づけています。

さて、もちろん「社会常識」だけが、
ルサンチマンによって形成されるというわけでは、ありません。
逆だってあります。
 ・目の前の日常に、一生懸命向き合って生きること
ができない場合、ルサンチマンによって
 ・夢を追いかけること
への、執着が生まれることがあります。
つまり、
 自分は「夢」を追いかけているんだ(勝者)。
 みんなは、つまらない日常にかまけている(敗者)。
なんて構造ですね。

本当は、「目の前のコト、やらなくちゃ!」と思っているんですけど
「その思いが自分の中にあること」を、自分で見ない様にしている。
そのために、ルサンチマンを使って、「物語」をこしらえるわけです。
(もちろん、「目の前のコトをやるのが正しい」というのも、自分が勝手に決めたルールですけど)

この様に、ルサンチマンは、
自分の「欲望」や「思い(観念)」に眼をつぶった時に、姿を現します。
「食べたい」と言えない時に、「ブドウを食べるコトは悪いコトだ!」
という「幻想」が創り出されるわけですね。

僕らの「心の仕組み」が見えてきたところで、前半を終えましょう。
続きは、後編「ルサンチマンからいかに自分を解放するか」です。