氷砂糖と朝の日光

氷砂糖と朝の日光

「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、
きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい
朝の日光をのむことができます。」(「注文の多い料理店 序文」宮沢賢治)

僕はこの言葉に、とても勇気づけられる。
それは、この一節が、僕らが生きることについての、
とても重要なことを、教えてくれるからだ。

僕らは、とかく特別な、非日常の経験を求める。
なぜなら、当たり前に過ぎていく毎日は、次第に新鮮さを失い、
目の前をただ、行き交う風景へと変わっていくからだ。
だから、いつだって、「氷砂糖」を求める。
その非日常体験をもってして「生きている実感」を得ようとする。

しかし、賢治は言う。
「きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光を飲む」のだと。
そう、それは、万人が手にするコトができるモノだ。
誰の目の前にも存在している、日常の経験である。
そこにこそ、本質がある。
それらこそが、私たちの魂を「創る」、本当に大切なモノ(=食べ物)なのだと。

きっと、僕らには、100の物語も、1000の特別な経験も必要がないのだ。
本来、たったひとつの物語から、たったひとつの経験からも、
僕らは、必要な知を導くことができる。
そして、それに、足りて生きることができる。
目の前に訪れる、昨日と変わらぬ日常を、その暮らしを、
丁寧に生きるならば、きっと、届かぬモノはないのだ。

・必要な経験は、全て目の前の日常の中に揃っている。

実は、僕はそんなことを、改めて、ひとりの友人に教えてもらった。
友人は、しばらく、社会とのコミュニケーションを断ち、
自分との対話の中で、日々を過ごしている。
だから、自分が社会につなっがた日の、小さな出来事を、
一字一句、恐ろしいほど正確に覚えている。
そして、そのことを、何度も何度も、何度も何度も、噛み締めるなかで、
僕が、100回経験して学ぶコトに、その知を届かせていたのだ。

僕は、「経験する」、「生きる」ということについての
本当に大切なことを、教えてもらった気がしたのだ。
その時に、宮沢賢治のこの一節が頭の中に流れてきた。

僕は、ひとつひとつの経験を、大切にしようと思った。
もっともっと、豊かなメッセージを聞き取りたいと思った。
いつも、そんな風にいられるわけではないけれど、
時々、この一節を思い出し、僕は深呼吸する。