あの頃、書きたいことがたくさんあった

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来月、娘が4歳になる。
ようやく、少し落ち着いて、文章を書いている。
引越し3回、店舗開店、インドにベトナムにタイに・・・と飛び回った日々は
充実しながら、目の回る忙しさではあった。

その中で、言葉を書くことから遠ざかってしまった。
思い返せば2020年まで、毎日のようにevernoteを開き、
色々と綴っていたのだけれど、書き始めても、
この通り、とりとめのない言葉ばかりが並ぶ。

時間がない、集中力がない、文章を組み上げる体力がない、
など色々理由はあるのだけれど、
それ以上に、今、「書かなくてはいけないこと」がないのだろうと思う。

あの頃の僕は、書きたいこと、書かなくてはならないこと、がたくさんあった。
書くことを通じて、世界と自分の理解を深めていった。
自身の経験と、心理学や哲学のセオリーを結びつけ、
またその発見を、気づきを、共有することに、深い喜びとある種の使命感を感じていた。

使命感というのは、大袈裟だろうけれど、
しかし、僕のブログなり投稿を読んでくれていた数少ない読者の方に、
わかって欲しいこと、理解して欲しいこと、共有したいことを
僕なりに、伝えたかったのは、確かだ。
言葉の宛先は、まず、自分であるから、
それらの気づきや学びを、僕は言葉にしながら、自らに浸透させていったのだろう。

そこには、体験を見つめ、原則に忠実に、自らを分析する、ひたむきな若者の姿があって
その誠実な姿勢は、(我ながら)素敵だったなと思う。

言葉は、適切に、語られるべき人を選ぶ。
あの頃、降りてきた言葉は、きっとあの日の僕にとってかけがえのないもので
その時にこそ、意味をなしたものだったのだろう。
今、読み返すと、不思議なほどに色褪せて、
切実な想いで言葉を紡いだあの日の自分は、もういないことに気づく。

今、僕には、伝えたいことが、ない。
論理を重ねて、証明したいことも、
世界に問いたいことも、共有したい発見も、ない。

けれど、それでも言葉を紡いで、文章を書いてみる。
誰に宛てたものでもない、発見もない、証明もない、意味も意義も意図もない文章、
自分以外にとって、何の価値もない文章を書く。
そこから、僕はもう一度、何かを発見しようと思うのだ。
これは、そんな個人的な実験の初稿である。