人生の旅 ーヒーローズジャーニーー

人生の旅 ーヒーローズジャーニーー

僕らの人生は、「内なる他者」との関係性を最適化していくプロセスだ。
それを①自覚し、②許容し、③信頼し、④共創関係を築いていくこと
が、癒し、成熟、ポテンシャルの最大化、自由や幸せを実現するための要件になる。

内なる他者というのは、
・自分の中に存在して欲しくない & 存在を認めていない要素、資質、人格
のこと。それはシャドーであり、隠された記憶であり、
インナーチャイルドであり、内在化された親であり、抑圧された感情であり、
それは、自分が持っている「力」のことでもある。

僕らは平穏な日常の中で、その存在に気づくとこは少ないが、
新しい出会い、非日常の体験を通じて、
または、焦燥感、切迫感、抑うつや病などを通して、その存在に触れる。
そして、この内なる他者との接触は、僕らの人生を変容に導いていく。

なぜ、「他者」が、僕らの中に存在しているのかというと、
「自我」の形成プロセスそのものが関与している。
僕らは、この世界に生まれ、言葉を覚え、社会のルールを学ぶ。
それは、親や社会から
・何が良いことで、何が悪いことなのか、
・何が愛され、何が否定されるのか、
・何が正しく、何が間違っているのか
をインストールされるプロセスであり、学びの数だけ、自分の中に、
・表現してはいけない資質
・存在することを隠さなくてはならない資質
が構成されることになる。

それらの資質は、その社会常識や親の価値観とフィットしない部分
=周囲の人間にとって望ましくない要素 であるため、
「危険な資質」として、封印されることになるわけだ。

こうして、周囲から許容される人格、愛を受け取り得る人格範囲が出来上がり、
これが、一般的に、「私」と呼ばれる「自我」を作り出すわけだ。

さて、しかしお気づきの通り、この封印された状況というのは、
自分の中に「対立構造」を生み出すため、
非常に不安定であると同時に、ストレスフルなものになる。

常に自分の中にある資質を抑え、隠し、否定し続ける必要があると同時に、
それは返す刀で、誰かの中にある「ネガティブ」な資質を否定し続ける役務を負うことになるのだ。

自分の不器用さを否定しているのなら、同時に、不器用な他者を、
自分の中の暴力性を否定しているのなら、暴力的な他者を、
決して許せないということになる。

より的確に書くのなら、その資質を「不器用性」「暴力性」と理解している限り、
その認識そのものが、自分の中にシャドーを作りだす機構として働くため、
それをどうにか隠したり、自分を律して乗り越えようとしたりと、
本来不必要な努力を続ける羽目になる。
そして同時に、「不器用」「暴力的」だというフィルターを通じて他者を見るため、
周り中に、「不器用」「暴力的」な人を配置して、生きていくということになる。
(否定された内なる他者は、必ず、外なる他者として襲ってくる
・・・というのは、ホラー映画の基本プロットね)

さて、このような状況は、自分も周囲もストレスフルなので、
僕らは、様々なライフイベントを体験しながら、この封印を解いていくことになるわけ。

この解呪のプロセスにはある程度の普遍性があるので、
様々な心理学の中でモデル化されていて、
一番よく知れられているのは「ヒーローズジャーニー」だろう。

元々は、世界各国の神話や物語にある普遍的な構造を抽出したものなんだけれど、
それが、僕らの人生に訪れる成長のプロセスとして一般化できるもので、
非常に、キャッチーだったので、とてもよく知られることになった。

スターウォーズは有名だけど、指輪物語も、オズの魔法使いも、ガンダムも
エヴァンゲリオンも、ジブリも基本的に「力(負の刻印を押された力)」の
封印と解放そして統合についての物語になっているわけ。

さて、この封印のプロセスについて、ネガティブに書いてきたけれど、
実はこれは、自分の力を深く理解し、
適切に使えるようになるために不可欠のものだったりもするので、
それがなければ良いかというと、そうでもない。
・力は一度失われ、もう一度、取り戻されなくてはならない
というのも、また真理。

キキは飛べなくなるし、ライラは羅針盤を読めなくなる。
それが、本当の意味で、成熟していくために不可欠なプロセスという訳だ。

閑話休題。

さて、僕らは、どこかで「呼び声」に誘われて、
本当の自分を探す旅へと歩みを進める。
自分の中にある、封印領域に気づき、それを否定している事実を認め、
その否定を解除しながら、その資質を含む範囲へと「自分」を拡大していく。

それは現時点での「自我(パーソナリティ)」を超えていくプロセスであり、
平和的に起こることもあるけれど、時に、「自我の死」と呼ばれるような
カタルシスを伴うことも多い。

自分が信じてきた真実・善・美、自分の生き方、自分の大切にしている価値観の
対極に存在しているものを「自分」として引き受けることは、
自我にとって、存在自体を根底から脅かされるような体験になり得るし、
同時に、それまでの「自分」=善良な人間である自分 が築いてきたものを、
全て失うような恐怖に対面することになるわけだ。

このプロセスは、一人で実現するのは非常に難易度が高い。
ゆえに、カウンターパートが必要。すなわち、「(外なる)他者」だ。
そう、僕らは、「他者」との出会いを通じて、「内なる他者」との対話を開始するのだ。

前述の通り、多くの場合、他者との出会いは、ただ喜びに満ちているわけではない。
多くの場合、他者・・・自分の理解を超えた、非常識な、信じられないような、
あり得ない存在・・・との出会いは、「自我」を揺るがす事件として知覚されるので、
互いの正義を巡る戦いの火蓋が切って落とされ、取るか取られるかの闘争・・・も珍しくない。

しかし、このような、自我を揺るがされ、それまでの自分らしさを壊さざる負えないような
出会いを通じてのみ、僕らは、慣れ親しんだコンフォートゾーン=力を封印された「善良なる市民」の
殻を打ち破って、本来の自分を解放する旅路へと歩みを進めることができるのだ。

基本的に、人間関係というのは、常に、このような契機を孕んでいる。
すなわち人間関係の問題というのは、全て「内なる他者の統合」に纏わる問題の投影に過ぎない。
つまり、多くの人が悩みとしてあげる、人間関係の問題・・・親子、夫婦、パートナー、
上司と部下にせよ、チームや組織の人間関係にせよ・・・は、
それを、自分の内的な統合、すなわち抑圧された自分の資質の解放と、自我領域の拡大、
再統合のための契機として捉えない限り、本質的に解決することはできないし、
逆に、そのように捉えた時にこそ、
信じられないほど巨大な人生のギフトを手にすることができるのだ。

誰かとの関係を、本質的な意味で、良好なもの、最適なものにしたいのであれば、
統合のプロセス、ヒーローズジャーニーに進むしかない。
あらゆる関係性とは、もちろん、言わないけれど、
もし、双方がそこに進めるのであれば、その関係性は、驚くほど実り多きものになる。

他者との出会いを通じて、僕らは自分の中にある未知、隠されてきた自分を
自覚する。そして、その資質を許容し、信頼する。
それは、自分をコントロールするのを手放し、その未知なる力が生み出していく、
新たな世界に身を任せるということ。
そして、人生の主権者を「自我」から、「ホールセルフ(未知なる領域を統合し、拡大された自己」
へと受け渡していくことになる。

さて、このプロセスの具体的な内容や進め方については、また別の機会にまとめるけれど、
最後に、この旅を進めるにあたって、マスト要件があるので、そこだけ、書いておきたい。

旅を進める上で、一番大切なことが何かというと、
「理解しない」ということ。これは、何よりも重要なことだ。
なぜかというと、「理解してしまう人」は永久に、
他者=自分の理解を超える存在 と出会うことが、できないからだ。

なかなか、人間関係がうまくいかない人、
悩みを抱えがちな人に、傷つけたり傷ついたりしがちな人に共通の資質は、
・相手が、自分と同じ世界を見ている
という極めて自己中心的な前提に立っているということに他ならない。

そういう人の特徴は、空想と事実が混濁しているということだ。
言い換えると、
・体験とは、自分が「解釈」を通じて作り出している物語である
という部分を、ちゃんと体感的に認識できていない。

故に、相手が、自分の想像とは異なる前提、視座、論理で動いている可能性を、
どうしても勘案できないので、
相手の行動や姿勢を、自分の知っている行動原理、常識、人間理解 越しに捉えることになる。

そして、自己完結した「被害」や「裏切り」を作り出し、
(勝手に)傷つき、その応酬として「攻撃」を繰り出すので
相手を傷つけるということになる。

特別なことのように聞こえるかもしれないが、
僕らが、人間関係に問題を抱える時、また悩みの中にいる時、
ほとんどが、自分が作り出した物語の中に迷い込み、
出口を探しているに過ぎないのだ。

この自作自演を「知識」と知っているだけでも、
その霧の中に一筋の光を見つけることができる。

重要なのは、相手の言動や態度に対して
・それは本当に自分の解釈した通りなのか?
・自分の解釈とは異なる意図や意味があるのではないか?
という視座を持ち続けるということ。
世界を、未知のままに、理解できないもののままにしておくこと。
それが、自分を世界に、他者へと拓くための、技法であり、
人生の旅、ヒーローズジャーニーを進めていくために最も重要なテクニックなのだ。