「HELP」

「HELP」

最近出会った、ある家族のことを考えている。
その家族は、父親によるDVで、子供は深く心に傷を負い、
いまだに、その傷は癒えていない。

一方で、その父親は、仕事では大変評価されていて、
善良で、素晴らしい気質の人で通っていた。

このケース、外で無理をして善良な人間を装い、
その反動が、家庭に向いた・・・というテーマや
本当は彼こそが、一番癒されなくてはならなかった
的な話もできるのだけれど、今回は、別の観点で話をしたい。

きっと、彼は、家族で暮らすという形態に向いていない
形質の持ち主だったのだろうという話だ。

家族は、人にとって大切なものだ。
その濃密な関係性の中で、人は自身を知り、愛を学んでいく。
時に煩わしい家族という関係は、多くのギフトに満ちているわけだ。

しかし、一方で、常識的な家族像に固執し、それを重んじるあまり、
本来の自身の形質を生かすことができない場所で、
自分の形質に合わない役回りを求められ続けることは、
人にとって、大変なストレスだというのも事実だろうと思う。
そしてそのストレスは、「吐口」を必要とするのだ。

想像に過ぎないけれど、彼は、一人で暮らして、存分に仕事をし、
夜は気晴らしに飲みに行き、たまに顔を見せに帰ってくる
という方が、あっていたのかもしれない。

さて、ここからが、今日のメインの話だ。

「家族」は本来、それが生き延びるために有意義であったから
構成されたものだろうと思うけれど、
現在、「家族」という仕組みを維持することが目的化している。
機能不全の家族は年々増加し、虐待やネグレクトは毎日ニュースを賑わせる。

それならば、いっそ、家族を解体してしまった方が良いのではないか。

アイデアはこうだ。
家庭の仕事を、母と父、二人で賄うというコンセプトをそもそも手放す。
そして、必要な機能を、周囲の得意な人に分担してもらう。
その代わり、自分も、誰かのテンポラリーなママやパパ・・・
(という概念もなくして)ファミリーメンバーを担う。

もちろん、このアイデア自体、新しくもないし
すぐに実現できる話でもないけれど、もう少しお付き合いいただきたい。

この話を書いている理由が、2つある。

1つは、子育てで、追い詰められているママ
(日本の場合、ママが育児することが多いのであえてママと書きます)
が本当に、たくさんいるということ。
そして、そのストレスが子供に向かい、
虐待やネグレクトに向かってしまうということ。

また、特に、心身に不調がある場合や
脳の構造的に、子育てが、なかなかうまくできないケース
また、子供が発達障害を含め、「通常」の育児のノウハウが
フィットしないケースなど、
支援が必要な人が、実は、たくさんいること。

けれど、「子育ては、大変なもの」というステレオタイプがあり、
必死で、自分一人で、もしくは「家族」の中で頑張ろうとしていること。

これは、ぜひ、変えたい。

もう1つは、人は、想像よりも、ずっと凸凹していて
自分にとって簡単なことは、誰かにとって難題、
逆もまたさらなりということ。

例えば、僕は、ハガキを出すというのができない。
数日間、下手すると1ヶ月ポストに入れらい。
それから、領収書の管理も死ぬほど苦手で、
全部、ぐちゃぐちゃに段ボールの中に突っ込まれ、
確定申告の前には地獄を見る。
これは、できる人にとっては、ふざけているとしか思えないだろう。

逆に、僕が得意なこともある。
先日、ある人が数日かけて作った資料の添削を頼まれて
ゼロから作り直し、30分で倍くらいのクオリティに仕上げた。
僕にとっては、ものすごく簡単。
その人にとっては、ものすごく難しい仕事だったわけだ。

ならば、資料作成は僕がやった方が良いし、
レシートは彼が管理したほうがいい(得意ならね)。

けれど、僕らは「仕事」というのを、ある程度、平等に分配している。
資料もそれぞれが作り、レシートもそれぞれが管理する。
お互いに、ストレスフルで非効率な仕事によって、生産性を落としている。

不得意なことに取り組むと、自分と世界を不幸せにするということだ。

だったら、得意なことにフォーカスしよう。
そして、できないことは、できる人に助けてもらおう。

長々と書いてきたけれど、
つまりはこういうことだ。

家庭案件も仕事案件も「やること」を全部テーブルの上に並べて、
自分が得意なものに◯をつける。不得意なことにXをつける。
自分のできないこと、自分の苦手、弱み、そして得意をオープンにする。
みんなでそれをやって、ガラガラポン。
得意を集めて、支援し合う。

自分ができないことは、助けてもらう。手伝ってもらう。
代わりに、自分は誰かのできないをサポートする。
もちろん、タイミングによっては、ひたすら支援を受ければいいし、
能力を持って生まれたのなら、それを行使する喜びに震えて
世界に自分をギフトすればいい。

しかし人は、例外なく人生の中で、ただ支援を受ける側に回る。
助け、助けれられる関係性の構築は、未来の自分への投資でもある。

これを通じて家族を拡大した(家族を解消した?)コミュニティを
自分の周りに作るということだ。
(社会って、元々、こうやって成立したんだろうけれどね)

さて、これを実現するために一番重要なことは、
・自分をオープンにする
ということだろうと思う。
困っている。できない。をオープンにする。
苦手、弱み、不得意を、オープンにする。
それは、優秀で、能力があって、迷惑をかけない「自分」を
捨てるということ。できる自分とさよならするということ。

それは、勇気がいる。大変勇気がいる。
自分を捨てる勇気と同時に、社会からの視座に対しての。

怠慢だと、逃避だと、責務の放棄だと、攻撃されるかもしれない
みんな頑張っているのに、ずるい、ひどいと妬まれるかもしれない。
弱者を標榜して、支援を受けるのだと、非難されるかもしれない。

けれど、それを超えていくのだ。
できない自分、凸凹の自分、傷を抱えた自分、
大人になれない、未熟な、足りない自分、不安的な自分を、
うまくいかない自分の人生を、そのまま、世界に解放するのだ。

盛り上がってしまったけれど、
今、少し、そんなことができる気配を感じているのだ。

実は、カトマンズにいる僕に、家族からSOSが届いた。
僕は、遥か遠い場所にいて、動きようになかったのだけれど、
母や義母が助けてくれただけではなく、
友人たちが駆けつけてくれたのだ。

勝手ながら、僕は、そこに希望をみた。
正直な話をしよう。
僕は、これまで、家庭での出来事は、自分が解決しようとしてきた。
その姿勢の背景には、
家族のことは、家族で解決という固定観念に加え、
誰かに、助けてもらうのは、とても申し訳ないことだ
という思いがあったからだし、
家族の問題を見せたくないという思いも少なからずあったろう。

けれど彼らは、当たり前のように手を差し伸べてくれた。
きっと、自分の都合もあったろうに、それを差し置いて、
支援をしてくれたのだ。

ありがとうを心の中で繰り返しながら、同時に僕は、重要な発見もしていた。

・僕は、これまで、誰かを助けることなどしてこなかった
・なぜなら、自分が「助けてほしい」と口にできなかったから

ということだ。これは、大きな発見だった。
今思えば、毎日のように、誰かに助けてもらって僕は生きている。
(特に、家族なんかには、ものすごく、助けられているんだけど)
にも関わらず、それをしっかりと自覚できなかったのは、
「助けて」という一言を、口に出せなかったからだ。

無自覚に採択してきた
「どうにか、自分で切り抜ける(つもり)」・・・というあり方は、
・世界を頼らない代わりに、自分にも頼らせない
そして、
・自分が頼らないから、世界に頼っていることを「自覚できない」
ということに、結びついていた訳だ。

思えば、
・頼らないから、頼らないでね。迷惑かけないから、迷惑かけないでね。
これが、僕の心の中にあった本音ではあるまいか。
(それは、実現できていないが、願いは人の認知を歪める)

そして、だからこそ、
・すぐに、誰かを頼る人
・できないという人
・自分のことが、自分でできない人
に対して、心の底で反発していた。
そう、凸凹を認める、他者を認めると口にしながら、
どこかで、自己完結した強者への成長物語に、依存していたのだろう。

さて、今回の経験は、僕にとって、
世界とつながることの意味を変えていくものになったように思う。

僕は、駆けつけてくれたみんなのことを、一生忘れないし、
彼らが困ったときは、彼らのピンチには、誰よりも早く馳せ参じるだろう。

人は、助けられ、だから、誰かを助けたいと思う。

このあまりに自然な・・・多くの人にとって、あまりに当たり前のことを
僕は、ようやく理解できてきたのかもしれない。

閑話休題。
というわけで、家族を解消するという話をまとめておく。
このプロジェクトを実現するために必要なことは、「助けて」と言うこと。
できないことを、自分で解決しようとしないこと。
できる自分になる努力ではなく、簡単に、助けてもらうこと。

きっと、あの日、助けてと言えたら、
誰かが、駆けつけてくれたかもしれないのだ。

無力な自分に代わって、助けてくれた存在、
それは友と呼ぶにふさわしい存在になるだろう。
そして、きっと、そこに「助けたい」という気持ちが浮かんでくる。
それが、世界へとつながる原動力になる。

繰り返す。
最初に、言わなくてはいけないのが、「助けて」という言葉だ。
なぜなら、それが、最初に僕らに、「受け取る体験」をくれるからだ。
さもなくば、僕らは、「与える」ことから始めてしまう。
すると、いつの間にか、「やってあげた」という意識が生まれ、
その返礼を求める「期待と裏切りゲーム」
つまり、ありがとう(愛)を求めて、先んじてサービス(献身)を提供し、
それが叶えられないと、裏切られたと叫ぶというゲームが始まってしまう。

だから、僕らは、受け取ることから、始めるのだ。
とするなら、その後のアクションは、全て、返礼になる。
助けてくれたから、助ける。それは、「助けてあげる」ではない。

それを一つひとつ重ねながら、本当の仲間になっていく。
弱さを許しあい、学び合い、本当の自分に戻っていく。

時間はかかる。
きっと、最初は、うまくいかない。
傷ついたもの同士が触れ合って、傷つけ合うこともあると思う。
けれど、触れ合うたびに、僕らは、一つ、人生をすすめているのだ。

さて、もちろん、これは自分と自分の周りからスタートするのだけれど、
こんなことに興味がある人がいたら、
色々アイデアを交換して、本当に、何か仕組み的なものにできるのでは?
なんてことも考えている。
感じることがあった方、ぜひ、意見交換させてもらいたいです。