傷ついたり、傷つけたり、許せない人がいる世界から抜け出すために
傷ついたり、傷つけたり、許せない人がいる世界は、
なかなかに辛いものだよね。
なぜそのような状況が起こるのか、
そして、そこからどうやって抜け出すかを書いてみよう。
イメージしてほしい。
許せない人、許せない体験。
それを思い出して、その人に言いたいことを言ってみる。
飾らずに、思いっきり、本音を出してみよう。
けっこうひどい言葉が出てくるかもしれないね。
大切なのは、まず、言いたくても言えなかったことがあることに気がつくこと。
それから、自分が書いたものをじっくり眺めて見てほしい。
すると気がつくはず。
それらは、
「〜するべきなのに、しなかった」
「〜してはいけないのに、した」
の2つのパターンになっているはず。
つまり、色々書いているけど、
「相手が自分の期待を裏切った」ということに、
あなたは怒ったり、傷ついたりしているということ。
実は、僕らが怒ったり、傷ついたりする時、必ず相手への「期待」がある。
期待があり、それがはずれた時、僕らは裏切られたと感じ、傷つく。
そして、怒りや悲しみという感情体験が生まれる。
では、僕らは相手に、いったい何を期待しているのだろう?
僕らが期待しているもの、それは「返礼」だ。
ギブアンドテイクの、テイク。
つまり、私はこれだけやってあげてるのだから、
あなたは、これくらいは返してね
ということ。
わたしは、こんなに尽くしたのだから、
あなたも、同じだけ尽くしてね。
わたしは、こんなに我慢してるから、
あなたも、我慢してね。
わたしは、頑張ったんだから、
あなたも、頑張ってね。
わたしが、あげたのだから、
あなたも、わたしに返してね。
わたしは、サービスしたのだから、
あなたは、ちゃんと支払ってね。
そう、実は、これは、ビジネス。
怒りとは、サービスに見合った対価が支払われていないという抗議なんだよね。
だから、
「わたしは、こんなに〇〇してあげたのに、☓☓された」
というのが、怒ったり傷ついたりという体験の底の方に眠っている。
自分が、人間関係で何かネガティブな感覚を感じたら、
相手に対して自分が何を期待しているのか見てみよう。
相手が、「何を裏切った」のか、見てみよう。
例えば、恋人が浮気した!
ということに傷ついたとするなら、
それは「相手が、自分だけを愛してくれるはず」という期待が
裏切られたということ。
さらには
・恋人同士は、一途に相手を想うべき
とか
・1対1の恋愛関係を続けるべき
とか
・相手を傷つける行為は、避けるべき
とか
いろんな「してはいけないこと・しなくてはいけないこと」リストも
くっついてるよね。
実は、ここで期待=ギブアンドテイクという視点眺めると、
面白いことが見えてくる。
自分は、何をギブしていた?ということ。
・一途であること
・恋愛のルールを守ること
・相手を傷つけないようにすること
を、ギブしていた・・・・そう、とても努力してね。
実は、ここで見えてくるのは「自分が自分に期待していること」。
つまり「自分に、強いていること」なんだよね。
自分は、頑張って、浮気しなかったのに、
あなたは、浮気するなんて、ずるい!
ギブアンドテイクが、成立していない!
という怒りが、隠れているわけ。
でも不思議じゃない?
なぜ、僕らは、自分に何かを強いてまで、
頑張ってまで、ギブするのだろう?
自己犠牲に苦しんでなおギブすることで、何をそんなにテイクしたいのだろう?
それは、「愛」なんだよね。
僕らは、愛が欲しくて、堪らない。
例えば「ありがとう」や「ごめんね」、
そんな言葉の向こうにある、「自分へのフォーカス」。
だから、先んじてサービスに身を投じる。
色々やってあげて、身を捧げて、努力して、我慢して、、、、
こうして、主従関係が生まれてくる。
足元を見られるってこと。
「あなた、愛が欲しいのでしょう?
だったら、もっとサービスしてよ」ってわけ。
だから、愛に飢えている人は、誰かから愛をもらおうとして、
この無限ループにはまってしまう。
愛をもらえることを期待して誰かに接近し、自分を差し出す。
愛が返ってこないから、もっともっとと差し出して、
今度は、「いらないよ」・・・と言われて、傷つく。
だからもっと、自分を捧げ、自己犠牲的になっていく・・・
そして、裏切られた!という思いが募っていく。
けれど、相手からしたら、
「押し売り」に困惑しているって話なんだよね。
サービスを一方的にどんどんされて、
お金払って!お金払ってよ!と言われてるってこと。
私こんなに頑張りました!こんなに一生懸命でした!
こんなに我慢しました!こんなに捧げました!
だから、100万円ください!
え?くれないの?こんなにやってあげたのに!!!
これは、誰もが通る道。
幼少期に「親の愛をもらう」というチャレンジからスタートしているからね。
けれど、これは人類の宿命というわけではない。
そこから自由になっていくことができる。
自分と相手に、何かを強いて生きること、
我慢比べをして生きるのを、やめることはできる。
どうやって?
愛を自足することで。
自分で自分に愛を手渡す時、僕らは、誰かに愛をもらう必要がない。
自分が自分を受けいれているのなら、
誰かに、受け入れてもらう必要がない。
その時ギブアンドテイクはなくなる。
与えることで、すでに、受け取っているのだから、
テイクアンドテイクになる。
どうやって?それができたら、苦労しないよ!
という声が聞こえてくる気がする。
僕も、どうやったらそこに行きつけるのか、色々とトライしてみた。
そして、ちょっとした勘違いに気が付いた。
それは、自分を愛するというのは、完成形があるわけではないってこと。
この状態になったら、自分を愛していると言える・・・というものではない。
「自分を愛していく」というプロセスにいる
ということでしかない。
そのスタート地点は「眼差しを自分に向ける」ということだ。
「誰がどうした」という認識から、
「私は、どう感じた」「私は、こう思った」という
「私」に居ることをはじめてみる。
傷ついたのなら、
「傷つけた誰か」ではなく「傷ついた私」と共にあること。
許せないのなら
「許せないあいつ」ではなく「私の中の怒り」と共にあること。
誰かのことを、世界のことを、どれだけ考えても、
どれだけ自分の正しさと、相手の過ちを主張しても、
その時、僕らは自分を置き去りにしている。
出来事は、自分の外側ではなく、内側に生起している。
あなたの悲しみは、あなたのもの。
わたしの悲しみは、わたしのもの。
あなたの怒りは、あなたのもの。
わたしの怒りは、わたしのもの。
この「自分と共にある」という感覚がわかってくると、
それが一つの「回路」になっていく。
一度それができてしまえば、その回路を使うたびに、回路が太くなっていく。
向き合うほどに深く、よりシンプルに、自分と共にいられるようになる。
これは、特殊なヒーリングや心理メソッドによって実現するものではない。
もちろん、「回路」に電気を流して活性化するというメソッドもあるけれど、
それよりは、日々の積み重ねが大切。
そして、自分と共にいるようになると、
自分の中の深い悲しみや、深い痛みに触れていけるようになる。
多くの場合、子供の頃の体験。人によっては、もっと古い体験の記憶。
自分の中で隔離されていた悲しみが癒されていくと
いつの間にか、あなたは誰かに何かを求めなくなる。
どうしてそんなに他人に要求していたのか、不思議に思うだろう。
もちろん、旅は終わらない。
せわしない日常は変わらないかもしれないし、
人生は、色々なことを僕らに送り届けてくれるから、
出会いも別れも、不破も誤解も理不尽な出来事も、これからたっぷり訪れる。
清水の舞台から飛び降りなくてはならない日も来るだろうし、
大切な人と分かり合えない日もやってくるだろう。
けれど、あなたがあなたと共にあるのなら
それらの出来事は、あなたを磨き、あなたを鍛え、
あなたの可能性を拓いていくだろう。
自分が自分と共にあることを、選択しよう。
僕らをそこに連れていくのは、選択する意思。
ただそれだけ。
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