人生を抱きしめて
悲しみや、苦しみから自由になるために何が必要かというと、
瞬間的な「癒し」とか「気づき」とかではなく、
「生き方」とか「世界観」というレベルでの変容なんだ。
・世界観をアップデートすること。
例えば、身に降りかかった不運や不都合な出来事を
誰かのせいにし、その人を変えようとしているなら
それは、いつまでも苦しい。
逆に、例えばそれを受け入れていくこと、引き受けていくこと
自分を超えていく契機としていくこと
そんな世界観にいるのなら、そこには自由がある。
不都合な出来事や、アクシデントがなくなるわけではなく、
同じ出来事や感情を、受け入れることによる自由がある。
僕は、そう考えてきたし、そのための方法論を書いたり
伝えたりしてきたのだけれど、
最近、その提案の意味について考えている。
より自由に、ストレスフリーに、ハッピーに生きることが、全てではない。
「人のせいにして、憎むこと」より「自分の投影として愛すること」が
優れているわけもないし、良いわけでもない。
それぞれの体験には、そういう形で体験する以外に、
たどり着けない何かを隠している。
そのどちらも、同じだけ貴重なものだ。
・誰の人生にも同じだけの価値がある
このフレーズにYESと答えるのなら、
人を恨むことと、愛することの価値は等しい。
苦労すること、痛むこと、悲しむこと、分かり合えないこと。
貧乏だったり、孤独だったり、不運だったり。
それは、喜びや愛や豊かさの体験と同じだけの貴重さを持っている。
すると、この世界に解くべき問題が、どこにも見当たらない。
解決すべきものは、どこにもない。
誰と話しをしても、
「今、その人が経験していること」は
その人にとって完璧な体験だった。
その人が、この人生で、体験し、学んでみたいと思っていることを
学ぶために完璧な状況が、そこにはあった。
懸命に生きるということそのもの、生そのものが
そこに1つの完璧さを持っていて、
僕らを、完璧な仕方で導いている。
だから最近僕は、少々途方に暮れてもいる。
人を憎むという素晴らしい体験をしている人に、
わざわざ、そこから降りてもらう必要性は?
僕の知っていることを、伝えることで、
その体験を別の体験にさせてしまうことの、意味は?
昔、こんな日記を書いた
何年か前に、僕はとても傷つく経験をして、
どうにか自分なりにその経験を消化しようと、懸命だった。
そんなさなか、いきつけのカフェで、旧い友達に偶然出会った。
僕の話を聞いた彼女は「悲しいね、大丈夫?」って泣いてくれて、
やさしいハグをくれた。
ふわっとやさしく包むようなハグだった。
あの、たった一度のハグに
自分がどれだけ救われたのか
今になってわかる。
ただ、「悲しいね」、「つらいね」って、
相手を受け止めること。
それが、どれだけ人を癒すだろう。
それだけで、僕らはきっと、進んでいけるんだ。
人が誰かのために、できること。
それは、ただ「君はそう感じているんだね」
と、受け止めることだけなのかもしれない。
Human being. 人間。
小さなことが許せなくて、
分かり合えないことが、悲しくて
素直になれなくて
攻めた自分が恥ずかしくて
そういうものが、なくなってしまったら・・・
それは、いつか、なくなってしまうのだから・・・
それがある人生を、味わうこと以上に素敵なことはない。
受け入れてしまったら、
拒むことによって生まれるたくさんの瞬間はもう消えてしまう。
それは、きっと思うより早く訪れる。
だから、今のうちに、それを抱きしめておこう。
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