常識・非常識 自由に生きるための処方箋
つまるところ、争いや諍いって
「あなたは非常識だ!」vs「あなたこそ非常識だ!」に集約される。
電車の中で通話をするなんて、非常識だ!
結婚しているのに、他の人を好きになるなんて、非常識だ!
子供を置いて出て行くなんて、非常識だ!
わたしは正しいけれど、あなたはまちがっている。
自分の常識に無自覚に従う時、僕らは、常にこのポジションを採用することになる。
ふたつの道がある。
自分にとっての「非常識」に出会った時に、
自分の常識にしがみつくか、自分の常識を飛び出すか。
後者を選ぶのなら、それは「自由」へとつながっている。
自らを越え、自らの想像をも超えていく道がそこに開けてくる。
自由とは、自分を貫くことではなく、自分を解体する作業の彼岸にある。
自分の思い通り・・・の世界は、僕らにとって最も窮屈で不自由な世界である。
不自由であることに気がつくことができないくらいに、不自由な世界。
自らの目の前に現れた非常識、
すなわち、許せぬモノ、相容れぬモノ、気持ち悪いモノ・・・
自分を苛立たせ、不安にさせ、傷つけるモノ。
それこそが自分を、連れ出してくれる
ひとつの常識を手放す時、
僕らは、ひとつ、自分と世界を許すことになる。
僕らは、そのたびに、ひとつ、自由になる。
非常識な出来事が、自分を導き
非常識な人が、自分を広げてくれる。
・・・そう、自分をイライラさせ、小言を言いたくなってしまうその人、
それが、あなたの救世主。
そんなわけで、僕は目の前に「非常識な人」が現れたとき、
こんな想像をしてみることがある。
その行動や言葉を、自分の最も尊敬する人の行動や言葉だと捉えてみるのだ。
ちょっといいなーと思っている人ではダメ。
例えば・・・キリスト、ブッダ、老子・・・そう、超えてしまってると思える人。
その人が、「それ」をやったとしたら?
「それ」を言ったのだとしたら?
そう思うと僕は揺らぐ。
それを「ダメ」だと断じた、自分の常識の方がおかしいのではないか?
自分の考え方は、一面的にしか物事を見ていないのではないか?
自分の恐れが投影されているに過ぎないのではないか?
その通りなのですよね。
毎回、気付いていなかった自分に出会う。
きっと、それは、どこまでいっても同じ。
僕らは見知らぬ世界に出会い、
そのたびに、自分の世界を拡大し、
より広く、より深く、世界とつながっていく。
常識を超える。
それが、自由への唯一の処方箋だ。
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