愛とケアネス

愛とケアネス

当時の僕は、しばらく神奈川の西端、湯河原町の実家に身を寄せて、
庭仕事をしながら、思索にふけっていた。
このブログも、言葉だけを拾うと、ありきたりな発見の話のように思える。
しかし、この小さな発見は、その後の僕の方向性を決定づけ
たと言ってもいい。
< Commented at 25 of March 2022


愛とは何か?僕にとって、それは、『ケアネス』のことであった。
それに気がついたのは、この1週間のこと。

妻の実家に5日ほど泊まって、彼女とお義母さんとの関係を眺めたことが、
僕に、大きな気づきという恩恵をくれた。

我が母は、献身という言葉が、似合う人だ。
彼女の前世はヨーロッパ中世の修道女かクリミア戦争に従軍した看護婦・・・だと
僕は、思っているんだけれど、
誠実性、献身性そして、その清らかさは、我が母ながら畏敬の念を禁じ得ない。
ただの純粋性ではなく、悲しみや業の痛みをも抱き込んだ、
深い奥行きが彼女の生にはある。

さて、その献身的なケアネスを受けて育った僕にとって、
献身的であることは、当然のことだった。

ゆえに、僕は、パートナーに対して、ものすごく献身的であった。
日常のレベル、目に見える形での献身性。
僕にとって、それが愛の形であった。
そして、だからこそ、相手にもそれを望んだ。もちろん、無意識に。

今回、異なる母娘の姿を冷静に眺め、異なる愛の可能性に気がついたわけだ。
僕は、はじめて、自身の中の「愛の定義」に気がついたのである。
ケアネス=母性=女性性。それは、ひとつの愛の形である。
しかし、同時に、それは、もうひとつの愛の形に、補完されねばならない。
それが、父性=男性性。

「私は、こう在る。従ってごらん。君の世界が拓かれるだろうから」
これが、男性性的な愛の形であると、僕は思った。

ここに、僕の中にあった矛盾が見えてくる。
僕は、「自分を生きる」と宣誓しながら、男性性的な愛を自らに拓いていない。
それを「愛」とは呼んでいなかったのだから。

この事実を理解すると同時に、僕は、自らが見過ごした、
与えられてきた愛について、想いを巡らせた。
そして、ひとつの結論を得るに至った。

僕は、与えてきたのではなく、与えられてきたのであり
教えてきたのではなく、教えられてきたのだということ。

それは、抽象的なレベルで理解し得るものだ。
なぜなら、それはひとつの関係性においての結論ではなく、
僕の生、そのすべての瞬間、すべての体験、すべての関係性における、
ひとつの納得であるから。

ともすれば、献身的な人間は、自らを与える側へと容易に配置する。
しかし、時にその贈与が、自らを贈与者=与えるもの
という認識へと連れていってしまう。

何も難しい言葉を使って話を進める必要はない。
これは、僕の無意識の自己認定が、変容したという個人的な、
しかし、極めて一般的な現象についての、記録に過ぎないのだから。

つまるところ、僕は、僕の読み取ることが出来なかった愛の形に、
想いを初めてめぐらせたのである。
そして、同時に、この「愛の定義」は、
我が家族の共通認識として存在していることも、理解した。

我が家において、愛とは、ケアネスであり、
ケアネスの度合いという尺度において、愛は測られるものであった。

目に見える形でのケアネスがあれば、愛がある関係性だと判断し、
それがなければ、愛がないと判断する。

もちろん、それだけではないし、もっと深くを読み取っての判断が
なされてはいるだろうけれど、
この見解は、そんなに的を外してはいないだろうと思っている。

そしてこのケアネスというテーマを、ある種、最も強くその生に反映させているのは、
この家族の中で、僕と母なのかもしれない。
だからこそ、二人の人生は、驚くほどの類似を見せる。

階下から母の夕食を知らせる呼び声が聞こえ、食卓に向かうことにする。
このテーマは、今日はここまでということなのだろう。

揚げ出し豆腐と、栗ご飯を食べる。
箸を握る手に少し、力が入らないのは、午後いっぱい
剪定ハサミを握っていたからである。
我が家の庭の木々は、27年の間に巨樹へと変わり、
人の力を大いに上回っている。

その自然の力に、いくばくかの秩序をもたらすために、
僕はハサミを握って枝落としに励むのだ。

剪定は、面白い。木々との対話であり、意図を探る行為だ。
枝が教えてくれる。どの枝を残し、どの枝を切るのか。
それは、コミュニケーションであると同時に、瞑想である。

これから木々と向き合う中で、
僕は、何かを取り戻すことになるかもしれない。
そのことについては、また後日詳しく描くことになるだろう。