ビギナーであることと、無力であることと、今ここを生きること
ビギナーが時に、素晴らしい結果を出すことができるのは、
自分を、「わからない」というポジションに置いているから。
わからない時、人は、センサーもアンテナーもその精度を最大化する。
相手や状況が発する微細なシグナルを拾う以外に、対処のしようがないからだ。
わからないから、目を皿のようにし、耳をそばだてる。
”決め打ち”せずに、いつでも戻れるように、変化できるように
柔軟さを残しておける。
それは、目の前の出来事を、ありのままで見ることに他ならない。
つまり、「今・ここ」に完全にフォーカスすること。
経験や知識(=これまで)をベースに、目の前の状況を理解することは、
とても「楽」だけれど、その状況の特異性、特別性こそが、見落とされる。
ベンヤミン風に言えばアウラが消失するわけだ。
一番大切なモノが、見えなくなる。
もったいないね。
逆に、自分はまだまだ・・・と過剰に謙遜していたり、自信が持てない状況とは
ビギナーであることを、否定している状況だと言える。
つまり、無力である自分を、許せていないというのが、背景にある。
ネガティブな感情というのは、つまるところ、無力感がベースにある。
ビギナーであることの否定、無力な自分を否定することの本質は、
「自分が、何かを提供できる」ということへの憧れ。
逆説的だけれど、「自分はできる!」という思いがある限り、
人は、『できる⇄できない』という二極で揺れ動くことになる。
すると、確信できるまでGIVE し続けることになる。
きっとそれも、必要なプロセスなのだと思う。
遅かれ早かれ、必ず、GIVE UP することになるから。
ギブアップすると、「自分」が与えることをやめる。
すると、ようやく、自分がただ自然に行為しており、
結果としてそれが誰かのためになる・・・ラッキーだね!って場所につく。
するともはや、『できる⇄できない』という軸自体がなくなる。
無力感は、必ず、「自分」への執着を必要とする。
「自分が◯◯する(してあげる・与える)」というポジションをなくした時、
物事は「起こす」ものから、「起こる」ものへと変わる。
「起こしている人」は騒がしい。
「~してあげる!という人は、多くの場合、
それに相手が応えない時、想定と違う反応が返ってきた時、
こんなにしてあげたのに!!!!と立腹しはじめる。
そうでなくとも、物理的に「騒がしい人」が多い。
その場のバイブレーションや調和に対してのセンサーを
閉じていることが多いから。
僕が立腹している時ってのは、起こしている時。
自分がモノを落としたり、バタバタしてる時ってのも、起こしている時。
「起こる」を生きている人は、静かで、調和していて、エネルギッシュだ。
世界にも自分にも「抵抗しない」から。
物事が、必要な形で起こり、そこにすべてがあることを知っているから。
そして、いつもビギナーだ。
その目は、世界を初めて眺めた子供のように、
いつも感動に輝き、喜びに震えている。
ビギナーであろう。無力であろう。
そして、目の前の世界の美しさに、いつも心を開いていよう。
2016年、年初の覚書。
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