宗教論:なぜ、僕らは、宗教を持っているのか
今日は「宗教」について、書いてみます。
そもそも、宗教とは、一体、なんなのでしょう。
宗教は、人間が「言葉」を生み出したことから、
この世界に、誕生しました。
なぜ、言葉が宗教を生み出すのでしょう。
言葉とは、ものすごくざっくりと言えば、「名前」のことです。
例えば、犬。
「犬」というのは、「グループの」名前です。
「犬」というのは、ポチとジョンと二郎と・・・無数の、
わんちゃんをひっくるめた「総称」なんです。
だから、「犬」という存在は、この世のどこにも存在しません。
目の前の生き物は、”ポチ”であって、「犬」ではない。
「犬」というのは、人の意識(脳でも心でも良いですが)の中にのみ、
存在する「概念」なのです。
さて、「犬」の他に、同じように、「猫」や「馬」というグループもあります。
これらをまとめると、「哺乳類」というグループができます。
さらに、哺乳類と魚類と両生類・・・をまとめると、
「脊椎動物」というグループになります。
そして、脊椎動物と無脊椎動物で、「動物」。
動物と植物と古細菌と・・・で「生物」。
生物と無生物で・・・ 「存在」。
存在と非存在で・・・???
・・・こんな風にグループ(概念)を統合していくと、
ピラミッドが出来上がります。
これは、「言葉」という、概念の体系を使う時に、
必ず生成されるモノです。
言葉を使うとは、ピラミッドを作るということです。
意識していようとしていまいと、僕らの頭には、
このピラミッドが入っています。
さて、このピラミッドの頂点には、何が来るのでしょう。
ピラミッドの頂点は、ポチ-犬-哺乳類-動物・・・その全て、
この世のすべてが含まれる概念になりますよね?
それは、「すべて」としか呼べないモノです。
この世の、全てを含むモノ、今あるモノも、ないモノも、
含有した、「すべて」。
この”すべて”のことを、oneness(ワンネス)とか
「大いなるすべて」とか呼びます。
その一番、知られた呼び方が「神」です。
さて、ですので、「神」とは、
・すべてを超越した存在/この世にあるすべてを含むもの
です。
そして、「今、存在しないモノ」をも含むので
・「この世の言葉(今、あるモノ)」では、表現できないもの
であり、それは
・永久に外部にあるもの/永久に理解し得ないもの
=人の理解を、常に、超え続ける存在 = 人知を超えた超越的な存在
として定置されることになるのです。
私たちは、人間である限り、言葉を使って思考し、認識し、行動します。
その事実は、私たちは人間である限り、「神」と共にあるということです。
私たちは、「神」と共に生きているのです。
(もちろん、それを「神」と呼ぶ習慣は、ないかもしれませんけれど)
この「神」:人知を超えたモノ に、
アクセスする方法を定型化したモノ、それが、宗教です。
聖典、儀礼、戒律・・・それは、アクセスのためのコードと
言って良いでしょう。
では、なぜこの、
「人知を超えたモノへのアクセス方法」である宗教を
人は、長い間、大切にしてきたのでしょう。
神とは、
・永久に外部にあるもの/永久に理解し得ないもの
です。
どこまで思考を研ぎ澄ましても、認識を高めても、
論理を重ねても、絶対にたどり着けない外部の存在。
この「どこまで行っても、たどり着けないモノがある」という事実は、
「完了」がなされ得ないことを、意味します。
すなわち、神は、
「もう、十分に理解した」「知り終えた」「真理に到着した」
と宣言する行為を、禁じるということです。
神という概念は、人類が「知り終えた」という地平に立つことを、
論理的に不可能にしているということです。
つまり、神を信じる限り、人間は自分を
「まだ、知らないモノ」「未完了の存在」「未完成」そして「未熟」
として定義し続けざるを得ないということになります。
自分の意見が、正しいかわからない・・・
そんな時、僕らは、相手の意見を聞きますよね?
自分の意見を一旦脇に置いて、相手の見解を聞いて見る。
それは、自分を「閉じないでおく」ということです。
・人をして、自分を、オープンにさせること
自らを未完の状態へと置き、変化の道程へと誘うこと。
現状の自分の知を、価値観を、観念を、「未熟」と置き、
変化の道へと歩ませること。
それは、同時に、「共生」の根本原理となります。
自らが理解できないモノの存在を前提し、
理解できないモノを、許容すること。
自らを「知っているモノ」すなわち「正義」と置いた時に、
自分が、自分たちが何をするのか・・僕らはよく知っていますよね。
この世のすべての争いは、正義対正義の戦いなのですから。
人類史を眺めれば、説明は必要ないでしょう。
(いや、現在という時代こそ、最も、「正義」が溢れた時代なのかもしれません)
未完であること、未熟であること、それを知ること。
(言い換えると、Stay hungry stay foolishでしょうか)
それは、人類の共生にとって、致命的に重要なことです。
神は、それを担保するための、不可欠な機能であり、
また、宗教の本質的な目的である、僕はそう捉えています。
「変化」について、さらに書いておきます。
なぜ、人には「変化」が必要なのでしょう。
それは、「生き延びるため」に、他なりません。
「完了」とは、停止を意味します。
生物学的に、停止とは、すなわち、「死」です。
それは、文化においても社会においても同じです。
停滞、停止、それは、滅亡を意味します。
この惑星では、これまで「種」の9割が死滅する、
大量絶滅が5回起こっています。
最後の絶滅が、有名な白亜紀の恐竜の絶滅。
その前にも、4回。
それは、ほとんど、生命全滅に近い状態でした。
そのような状況を、奇跡的に生き延びたのは、
激変した環境に適応した個体です。
自らを変えられなかった種は、滅びました。
我々人類のDNAには、
自らを変えて生き延びた個体のDNAが刻み込まれています。
「生き延びたいなら、変化せよ。」
「自らを未知へと、拓き続けよ」
それは、我々の最深部にこだまする、生命のメッセージなのです。
さて、なぜ、人は、宗教を持つのか。
その問いへの1つの答えが見えてきたと思います。
人は、
・自らの未完を知り、自らを未知に対して、拓いていくため
・自分を超越し、変化と自由を手にするため
・自分の理解できないモノを、許容し、共生するため
に、神を抱き、宗教を持つのです。
本来の宗教とは、このような、
綿密かつ、知的に組まれた、自己変容の方法論、
共生の方法論、人類が生き延びるためのプログラムなのです。
さてさて、長くなりました、
今日のところは、こんなところで筆を置くことにします。
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