対話と対話の場
弟子:「なぜ、先生は真理を追求するのですか?」
師:「なぜ、君は、そう問うのか?」
・・・対話というのは、不思議なモノです。
弟子は、「真理を追求する、師の精神」を尋ねます。
しかし、その時に弟子が感じていた「知りたい」という気持ちこそ、
弟子が探していた「真理を追求する心」そのものなのです。
つまり、弟子は、その問いを発した、まさにその瞬間に
その答えを自ら探し当てているのです。
対話の空間は、この様に、形成されます。
対話の場で話されているコト(=コンテンツ)は、
「対話の場(=コンテキスト)」と連結されています。
それは、
「話されているコト(話題)」は、「対話の場」において、
再演(リプレイ)されている・・・ということです。
それは
・問いを解く鍵は、問いの中に既に明かされている。
ということです。
なぜなら、「問い」を起動するのは、
対話の場、そのものだからです。
僕らは、自分の意志で話をし、聞いているのではありません。
いや、「私が話をしている」、「私が聞いている」という状況は
存在しないのです。
そうではなく、
話をすることで、その瞬間、話し手としての私/あなた(自意識)が生まれる。
話を聞くことで、その瞬間、聞き手としてのあなた/私(自意識)が生まれる。
わけです。
つまり、対話の場そのものが、
対話者を創り出すのです。
・話し手 ー 言葉 ー 聞き手
この3者は、同時に生成されます。
対話の場以前に、話し手も、聞き手も存在しない。
さて、この理解に立つと、「出会い」の本質が見えてきます。
出会いとは、私とあなたが、出会うのモノではなく、
出会いが、その出会いの機会に固有の私と、あなたを創り出す
プロセスだということです。
つまり、「私」と「あなた」が出会った瞬間、
目が合った瞬間、言葉を交わした瞬間・・・
いや、互いを認識した瞬間に、プロジェクトがはじまっているのです。
そのプロジェクトのために、
私とあなたが、そのプロジェクトに相応しい形で創造されるのです。
だから、
誰と居るかで、「私」は全く別人なのです。
あの人は、人によって態度がまるで違うのです。
それは、「ごく自然なこと」であり、
意識的に行っていることではありません。
出会いの場というコンテキストが、
そこに、必要な形で2名の意識体を創り出すのです。
「私」と「あなた」の間に、あるひとつのテーマがあるのです。
そのテーマが、私たちを出会わせ、関係させ、対話をさせるのです。
そのテーマが、私たちをその場、その瞬間、創り出すのです。
テーマは、対話の場に明かされています。
そこに「再演」されているのです。
対話の場、そして、その場に向き合っている自分、
そこに、必ず、何かがあります。
無意識に採用した話題、
ふいに思い出された記憶、
出てきた感情、
湧いて来た疑問、
そして
隣の席のカップルの会話
聴こえて来た音楽
カーテンを揺らす風
そこに耳を澄ませてください。
そこにフォーカスしてください。
きっと、自分に必要なメッセージがやってきます。
何のために、そんなことするのかって?
面白いからです!
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