「刑事ドラマの取り調べ」から知る人間関係の秘密。

「刑事ドラマの取り調べ」から知る人間関係の秘密。

刑事ドラマを見ていると
恐い刑事と、優しい刑事がタッグを組んで、取り調べをする
・・・というシーンをよく見ます。

あの役割分担ですが、戦略的に採用しているというよりも、
自然にそうなる・・・ということだと思います。

便宜的に、優しいをマイナス、厳しいをプラスで表現すると、
優しい刑事が、優しさ-10という態度を取る時、
恐い刑事は、厳しさ+10という態度を採用します。

恐い刑事からみると、
優しい刑事の取り調べは「優しすぎる」ので、
本来より”ぐっと”攻撃度を増すのです。
すると優しい刑事は、これじゃ攻撃的すぎる・・・と感じて、もっとやさしくなる。
すると恐い刑事はもっと・・・という連鎖が、エスカレーションを生むのです。

ここに、過剰なモノが生まれます。
過剰・・・・すなわち、不自然さ。
この不自然さというのは、多くの場合、「禍根」を残します。

双方が、自分の本質よりも、防衛的/攻撃的 になることで
自然な自分が創り出す関係性とは、別のモノを相手との間に築いてしまう。
取り調べ・・・では良いのかも知れませんが、

僕らが、日常生活で、誰かと組んで仕事をする時や、
誰かと過ごす時には、マイナス作用をもたらすことも多くあります。

真面目と不真面目。ずぼらと几帳面。優しいと厳しい・・・
外交的と内向的。慎重と大胆。

互いが、それを自分にない美徳として認め合える場合は、
とってもうまく機能します。経験的に僕らが知っているとおりです。
しかし、互いが反発しあい、否定しあってしまう関係もあります。

いずれにせよ、多くの場合、
自分の在り方が、相手をさらにそちらに向かわせている・・・
ということは、自覚されていないのです。

部下の不真面目さは、真面目すぎる自分によって引き出されています。
夫のずぼらさは、几帳面すぎる自分が引き出しています。

そして、その不真面目さ、ずぼらさをカバーするために、
さらに真面目に、几帳面になると、結果、相手はさらに不真面目に、ずぼらになります。
もちろん、逆も然りです。

このエスカレーションによって、
互いに互いの在り方をやり方を、「最悪」と形容するところまで
行き着くことになります。

さて、この関係が意味するところは、なんでしょうか。
それは、互いに一番見たくないモノを見ているということです。

「真面目過ぎる人」は、「真面目な人」と違います。
「過ぎる」というのは、過剰なモノが入っているということです。

そう、「真面目すぎる人」というのは、
そもそも「不真面目な人」によって、
引き出されて創られてしまった人格なのです。

不真面目な人・・・それは、「自分の中の、不真面目な人格」のことです。
真面目すぎる人というのは、
「自分の中の、不真面目な人格」によって、
「真面目な部分を過剰に引き出された人」です。

つまり、「自分の中の不真面目な人格」を否定するために
真面目な部分を引き出しているのです。
(恐い刑事が、優しすぎる刑事のやり方を、
 中和するだけの厳しさを持とうとするのと同じです)

ここに、エスカレーションが生まれます。
自分の中の、不真面目さを否定するほどに、人は真面目にあろうとします。
自分の不真面目さを許容できない時、人は真面目な自分をどんどん強化するのです。
その「過剰さ」が、外から見れば「~過ぎる人」と映るのです。

さて、述べてきた通りの理屈によって、
真面目すぎる人は、結果、いつもいつも、
相手の中の不真面目さを引き出すことになります。
つまり、いつもいつも、とーっても不真面目な人と、居ることになる。

自分が、相手の不真面目な部分を、いつも強く引き出してしまうんですから、
その人の前に来ると、誰もが、不真面目になってしまうわけです。
すると、彼にとっては、一番フラストレーションがたまる相手が、
いつもいつも目の前にいるということになります。

場所を変えても、相手を変えても、無駄です。
自分が、相手から引き出してしまうんですから。

もうお分かりですね。
彼が、その様な状況を抜け出るためには、
「俺って、不真面目なトコもあるけど、それもまた俺なんだよな。
 それで、良いやな」と認めることです。

自分が見ることを、認めるコトを「回避」してきた部分を、
受け入れ(アクセプト)、自分の中の「隔離」を統合する。

そうすると、まず第一に、相手が不真面目であることに、
大したストレスを感じなくなります。
だって、不真面目って、そんなに悪いコトじゃない・・・と
認識が変わっているんですから。

そして、次に、相手が、不真面目じゃなくなります。
なぜなら、自分が相手の中から不真面目な部分を引き出すことをやめるからです。

シンプルです。
そう、気がつけば、とてもシンプルなことなんです。

さて、人間関係というのは、常に、この様な仕組みで構成されています。
すなわち、
・相手の中の気になる要素、ダメだと思う要素は、
 自分がまだ認めていない、自分が映し出されていて、
 それに気がつき、受け入れていくことを通じて、
 より統合された、パワフルな自分になっていくコトができる。
ということなんですね。

人間関係、特に、不愉快だったり、気に入らない人間関係には、
必ず、そんなチャンスが眠っています。
自分が創り出す人間関係・・・親子関係から職場の人間関係、
祖で触れ合っただけの関係まで、それは共通。

・そこに、何が顕在化しているのだろう?
・それは自分の、どんな部分を学ぶレッスンなのだろう?
そう問う時に、答えは見えてきます。

言うはやすし・・・ですか?
いえいえ、「案ずるより生むがやすし」とも言います。

この統合のプロセスは、その人に取ってどれくらいそれが重要なテーマか・・
ということで、長さも必要なプロセスも違いますが、
そこに向き合うコトで、必ず、何かが変わっていきます。

いつだって、変化の始発点は、自分なんですね、
共に、変化の道を歩いていきましょう。