I love you から I love へ

I love you から I love へ

あなたが居ないと生きられない。
あなたの、全てを知りたい。
あなたのコトを考えて、眠れない。
あなたを、救いたい。

それらは、「愛」ではない。
いや、「愛」の一部かもしれなけれど、
愛の本質ではないのだろうと思う。

なぜなら、愛は、”愛”であって、
依存でも、所有でも、恋慕でも、同情でもないのだから。

じゃあ、愛って、なんだろう。

それは、「幸いを願うこと」ではないだろうか。
健やかであって欲しいと願うこと
幸いであって欲しいと願うこと

とても、シンプル。
そして、それは、行為でなく、ひとつの態度のことなのだと思う。
相手に触れる、一つの態度。世界に触れる、一つの態度。

それは人生に、自分に、世界に向けられる、共通した眼差しのコト。
すなわち、愛ある人は、万人に対し、万物に対して愛を持つのだ。

本来、愛は対象依存的なモノでないとすら言えるかもしれない。
目的語の必要ない動詞。自動詞としての愛。
愛=愛の状態であるということ。

I love you から I love へ。

愛とは、自らの内側に灯る「光」。
照らし出すという、行為。
光を放っている、状態。

光そのもの。

愛は、無差別に周囲を照らし出す。
無作為に、無分別に、無条件に、周囲を照らし出す。

それは一方的で、自己充足的なモノだ。
故に、その光が受け取られようが、受け取られまいが、どっちだっていい。

そこに、
「こんなに、照らしてあげたのに!!」とか
「あなたのために、照らしてあげている」
なんて言葉が、生まれることはない。

きっと、僕らの本来の姿は、光なのだ。
僕らは、本来の姿である時、愛を生きるのだ。

僕らは、この「愛」すなわち、「光であること」を、
ひとりの人を通じて学ぶ。

僕らの人生は、「ひとり」を愛することから、はじまる。
まず母(※)。そして、身近な人間関係・・・家族、友人、恋人・・・

僕らは、「ひとり」や「身近な関係性」に対して、その幸いを願う。
それは、排他的なモノだ。
しかし、そこから始めるしかないのだ。

その限定的な・・・依存、所有、恋慕、同情と混ざりあった
混沌の中で、「愛」を、見つけていくのだ。

I love you を経由しない、I love は、ない。

僕らは、必ず、誰かに光を灯してもらう必要がある。
誰かを「愛する」という経験をする必要がある。

だから、出会う。
こんなにも、切実に、関係し、
時に苦しみ、打ちひしがれ、涙に暮れ、それでも、探す。

それは、全て、自分の内なる光に出会う旅路だ。
愛の存在になるための、愛を生きる歓喜に出会うための
僕らを夢中にさせるジャーニー。

僕らは、今日も、愛する人との日常に、
喜び、怒り、哀しみ、楽しむ。
きっと、そのひとつひとつの出来事が、僕らを愛へと導いていく。

きっと今日は、昨日より、一歩、僕らは、愛に近づいた。
そして明日は、今日よりも、また一歩、愛に近づくだろう。

僕らは、そんな風に、どこまでも行くのだ。
どこまでも、どこまでも・・・その命尽きるまで。

今日という一日が、健やかで、幸いなモノでありますように。
全ての出会いと、全ての別れに祝福を。