「原因探しの罠」とその回避方法
人は、困難に向き合った時、その原因を探します。
例えば、些細なコトから、相手を怒らせてしまった・・・
どうしてだろう?いつもは、怒らないのに・・・
そうだ・・・この間、約束を破ったから、そのことをまだ根に持っていたんだ。
なのに、また直前にキャンセルをしてしまったんだ!
そうか、「だから、相手が怒るのも、当然なんだ。
・・・こんなふうに、「なぜ?」が解けると、僕らは、落ち着きます。
もちろん、「やってしまった」という感覚は残っていても、
「原因」が分かっているから、対処のしようもある。
このプロセスを、一般化すると、
僕らのモヤモヤは、
コトの「因果関係(原因(度重なるミス)と結果(相手が怒っている)のつながり)」の
明確化によって、消えていくということです。
即ち、「なぜ自分はそんな状況に向き合っているのか」を、理解した時
人は「やるべきこと」を見つけ、次に進んでいける。
逆に、それがわからないと、モヤモヤして、動けない。
さて、この原因探し、実は、「原因」は、本当でも、嘘でも良いんです。
究極、自分にとって「納得」できれば、なんでもいい。
(上記の例でも、自分は全く関係がなく、相手が他のことで苛立っていたのかもしれません)
「前世、悪いコトしたから」「方角が悪いから」
「カルマだから」「小さい頃の親子関係が・・・」
「知らぬ間に、常識的な価値観が刷り込まれていて・・・」
・・・本当に、何でもいいんです。
(皮肉ではなく、本当に、自分が信じられる理由なら、なんでも良い)
失恋も、人間関係の問題も、心の哀しみも、苦しい状況も、
「因果関係」を見つけることで、僕らは、その解決に力を注ぎ、
そこから、脱することができる。
だから、この「因果関係の解きほぐし」は、とても有用なプログラムだと
言えるわけです。
しかし、実はこの「因果関係の発見プログラム」には、落とし穴があるのです。
それは、
・僕らは「納得」のために、自分の都合良い「原因」を創作してしまう
ということです。
有名な話だけれど、アメリカで精神分析が流行した頃、
「潜在意識に封印されていた、実父に暴行を受けた記憶」を思い出した女性が
父親を訴えるという事例が頻発しました。
そして、その後、そのほとんどが、「事実無根」だったことが、わかったのです。
クライアントとカウンセラーは、一緒になって「記憶を創ってしまった」のです。
「うまくいかない今の生活」を、「仕方なかった」と語るためには、
それくらいの「悪いコト」=「原因」=「諸悪の根源」が必要だったわけです。
彼らは、それを「無意識に」、造り上げてしまった。
クライアントは、救われるために。
カウンセラーは、救いたいという、想いのために。
すると、「本当は必要なかった、哀しい記憶のインストール」という
本末転倒なコトが起きてしまっていたことが、見えてきます。
これは、極端な例ですけれど、
「原因」探しは、時に、そんな具合に働いてしまうのです。
僕らは、時に、自分が見つけた原因そのものによって、
身動きができなくなってしまいます。
例えば、病気になった原因を「先祖の祟り」という、物語に回収してしまうと、
・体調が悪いのも、先祖の祟りのせい。
・自分が不幸せなのも、先祖の祟りのせい。
・就活がうまくいかないのも、先祖の祟りのせい。
となってしまい、このサイクルから、出られなくなってしまう。
つまり、この「納得感を得て、次に進む」ためのプロセスは、
同時に「足をひっぱる悪いコト」をたくさん所有することで、
今の「望ましくない状況」を、そのまま肯定し、維持するためのプロセス
として、機能してしまうということなんです。
では、どうすれば?
「因果関係を明確にする」という行為の、本当の目的を知れば
この落とし穴にはまらずにすみます。
「原因探し」の本質的な目的は、
「スッキリのため」ではありません。
「今を肯定するため」でも、「心のブレーキを外して、自己実現するため」でも、
「原因を突き止め、解消するため」でもありません。
それももちろんありますが、それは、二次的な効果に過ぎない。
本当の目的は、「『学び』を手に入れるため」です。
それは、
人間とは何か、生きるとは何か、自分とは何か、愛とは何かという、
より深く、本質的な人間観・世界観を学んでいくこと
です。
トラウマに向き合うコト、過去を知ること、自分の中の観念を知ること、
自分の身体のメッセージを聴くこと、論理を研ぎすまして自らの思考に分け入ること
分析し解釈し、自分を見つめることの、本質的な目的は、この「学び」にある、
僕はそう思います。
「学び」を目的にした時、僕らは、そこに留まることを許されません。
僕らは、学びのプロセスの中で、自己を解体し、超越し、
より深く人生を生き始める。
より柔らかに、より自在に、生を歩み始める。
体験、記憶の想起、夜見る夢、ふいに浮かんでくるイメージ、
自分が口にする言葉、言葉にできない感覚、
その総体である今・ここの瞬間、それは、「学び」のためのリソースです。
学びは、言葉にできることも、言葉にできないこともあります。
それでも、確かな痕跡を僕らの中に刻んでいく。
確かな引力をもって、僕らを導いていく。
「原因探し」・・・なぜ?どうして?という問いを口にする時は
「学び」というゴールを忘れないでください。
「自分に何を教えてくれるのだろう」「自分は、何を学べるのだろう」という姿勢を
忘れないでください。
その時、僕らは、原因探しの無限ループから出ることができます。
僕らは、自らを成熟させるために、自ら、自分に必要な物語を創ります。
僕らは、自らを成長させるために、自ら、自分に必要な現実を形成します。
僕らは、自分のために、ただただ、自分の魂の成長のために、
自分の現実を創造するのです。
即ち、その最前線である、「今・ここ」には、
自分に必要なモノは、全て揃っているということです。
目の前に続く、歩むほどに美しさを増す学びの旅路、
気がつくと、その道を、夢中で駈けている自分に出会うはずです。
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