倫理と意志 〜罪と向き合うために〜

倫理と意志 〜罪と向き合うために〜

最も、深い心のブロックのひとつが、罪の意識、すなわち罪悪感です。
心の深部にある罪の意識は、自らが幸せになることを、禁止しています。
罪悪感をいかにして、解放していくのか・・・そのためには、まず向き合うことです。

まず、そもそも、「悪」とは何か、「罪」とは何かについて、考えてみましょう。
それは、「善・悪」を定義することに他なりません。
まず、結論から書いてしまいます。

善とは、・自らの行為の責任を、引き受けることです。
逆に、悪とは・自らの行為の責任を、誰か・何かに、責任転嫁することです。

この結論にいたる道筋を見ていきましょう。
人は、責任を転嫁する生き物です。
自分の「尺度(知識・価値観・観念)」に頼れば、その規範なり倫理なり道徳なり法律に、
自らの行動の責任を転嫁する。
(だって、そう習ったんだもの。そう教えられたのだもの・・・)

神の教えに頼れば、自分の行為を、「神の意志」として、転嫁する。
(神の意志のままに。教義にそうあるから。そう言われたから・・・)

では、なぜこの様な「責任転嫁」が「悪」なのでしょうか。
それは、責任転嫁を許可された時、
「◯◯のために必要だった、致し方なかった」という弁明を許した時に、
人間はありとあらゆる行為を正統化することができてしまうからです。

神の名の下に、民族の名の下に、民主主義の名の下に、
どれだけの血が流されてきたのか、僕らは知っています。
自分の意志と責任で、爆弾を落とせるパイロットは居ませんが、
平和の名の下に、正義の名の下に、国の誇りの名の下に、爆弾は落とされるのです。

人は、自らを超えた大きな意志に身を預けた時に、自らの人生を手放します。
自らの意志を捨て、人であることを、やめます。匿名の「装置」になるのです。
それは人のカタチをした、人ならざるモノ。

だから、それは、許されてはならない。
だからこそ、人が人であるための条件=「倫理」・・・の根本には、
「自らの行為の全責任を、自らの意志へと回収する論理」が据えられねばならない。
人が人であるためには、自らの行為を、自ら引き受ける意志が不可欠なのです。
それは、人間が人間として生きることの、根本に据えられた、善への意志なのです。

善が生まれるのは、一切の、原因、一切の行動の原因を、自らに向けること。
自分が行った行為の責任を、何モノにも、転嫁しないこと・・・その瞬間です。
それが、唯一、「善」の足場なのです。
その立場に立った時に、行われる行動を、「善」と呼ぶのです。

だから「悪」とは、「原因を創ること」だと言えます。
内的であれ外的であれ、自分の行為の責任を、「何か・誰か」へと転嫁することです。
(※ 「されたコト」・・についてではなく、「したコト」・・についてです。)

そして、自らが意志したことを、誰か(親・上位の人・神)、
何か(規範・命令・環境)のせいだと転嫁した時に起こる感情のことを、
「罪悪感」と呼ぶのです。

例えば、「人を裏切った」とします。
そこには、きっと、やむにやまれぬ事情があるでしょう。
それは、「仕方のなかったこと」かも知れません。
しかし、その「仕方のなさ」は、「自分が、意志によって、それを実行した」という事実を
なんら、損なうものではありません。

その行為は、確かに、自分の意志に基づき、自分の意志で決心をし、
自分の身体を動かし、自分が行ったことなのです。

結果として、相手は、深く傷ついたでしょう。その結果は「想定通り」だったはずなのです。
「傷つけることを知っていて、傷つけた」という事実から目を離すことは許されません。
それに「気がつかなかった」というのは、「転嫁」のひとつのカタチです。
「知りたくなかったから、見ない様にした」のです。

しかし、その「行為」自体は悪ではありません。
「人の心を傷つけること」自体が、「悪」ではないのです。
それは日常茶飯、いつでも、僕らの人生に起きるコト。
「悪」が生まれたのは「人の心を傷つけることを知りつつ、自分の意志で人を傷つけ、
しかし、その責任を誰か・何かに転嫁すること」なのです。

・「自分が、意志を持って行った事実」を否定し、何かや誰か、状況のせいだと弁明すること

それを、「悪」そして「罪」と呼ぶのです。
その弁明とは、・寂しかったから、辛かったから、お金がなかったから・・・・
脅されていたから、断れなかったから、信じていたから・知らなかったから、
気がつかなかったから 等々すべてが、含まれます。

誤解して欲しくないのは、その理由が「嘘」だと言っているわけではないということです。
それは、全て「本当のコト」です。
僕らは、本当に「やむにやまれず」行為をしています。
その時、きっと必死に生きる中で、その決断をした。それは、紛れもない事実でしょう。

しかし、「原因、理由、事情が存在すること」と、
「意志を持って行為したこと」は、全く異なる二つの事実なのです。
異なるアプローチをしていくべき、2つの事柄なのです。

だから、いかなる原因があっても、自分が意志を持ち、
その選択と行動を行ったコトに変わりはありません。
「人を傷つけることを知りながら、それを実行した事実」は
いかなる理由を挙げても、変わらずに、確かに、そこにあるのです。

では、犯してしまった罪を、いかにして償えるのでしょう。
いかにして、罪悪感から解放され、善を生きることが、できるのでしょう。

それは「罪を認めること」です。
「自らが望んだ」という事実を受け入れるコトからしか始発はできない。
「自分が、意志した」という事実を、受け入れるコト。

逆説的ですが、罪悪感から解き放たれるのは、自らの罪を告白した瞬間なのです。

何かの所為、誰かの所為を、やめた時、はじめて、罪悪感が消えていくのです。
(キリスト教の、罪の懺悔という装置の「機能」が見えてきますね)
その時にはじめて、自らを許すことができる。

そこに、善が始発します。
もちろん、そこに後悔は残るでしょう。
「自分のせい」に一番したくなかったコト・・・だからこそ「誰か・何かのせい」にしてきたコト・・・
それを、認めるのです。時に、それは、辛い。
でも、そこからしか、新しい日々は始まりません。
そこから、自分の生み出したカルマを、解消していく日々を始めていくしかない。

そこに踏み出さなければ、永久に、「仕方なかったのだ」と言い続け、
迫り来る追求(良心の呵責、誰か・何かの追求)から逃げ続け、
時に、自らを罰し続ける日々を生きることになります。

だから、踏み出す。生きることで、変えていくのです。
そのために、僕らは、まっさらな未来を持っている。

人を傷つけたのなら、傷ついた人を救うこと。
人を殺めたのなら、人の命を救うこと。
人を裏切ったのなら、誰かに取って本当の信頼できる人間になること。 

それが、その人の、人生のミッションになります。
それを、やっていくしかないのです。
それが見えた時、腹が決まります。明確に、自分がすべきことが見える。
それは、罪滅ぼしの旅路ではありません。許しの旅路です。
生きる意味を見つけ、そのミッションを叶えていくために自らに与えた学びの旅路なのです。

だから、その道程は、きっと感謝に満ちる。
自分がそれを、出来ることへの感謝の気持ち。
そして、自分の行為に向けられる誰かからの感謝の情。
だから、それは、愛と歓喜の旅路となるでしょう。それでいい。

「犯した罪は、自らのミッションを教えてくれる始発点」です。
だから、上を向きましょう。そこから、始めましょう。

僕は、たくさんの人を傷つけてきました。
僕は、自らの意志で、それを行ってきたのです。
自らの優越感と、虚栄心を満たす為に、それをやってきた。
愛が欲しくて、認めて欲しくて、それをやってきた。
だから、僕の人生は、「人がより自在に、より幸せに生きるための支援」
のために使うことにしました。
・人は調和の中で生きることができる。
・全てを学びと成長へと変えていくことができる。
・自分を他人を認め、許し合い、愛し合うことができる。
僕はそれを伝えながら、同じだけ伝えてもらっています。

そこには義務感も、責任意識もありません。
あるのは、「僕の意志」だけです。
だから、誰のせいでも、何のせいでもなく、ただ、僕が決めたから、僕はそう生きる。
ただ、それだけです。
僕はそれを、大いに謳歌しようと思います。
その道を歩めることに、日々、感謝をしながら。

明日は、終戦の日。
きっと、68年前、戦いを終えた人類は、善く生きようと思った。
愛と希望と調和の日々を創ろうと思った。

僕らは、自らの人生を引き受けるコトを通じて、その想いを生きるのかもしれません。
それが、僕らにできる、唯一のことである気がします。
それが、調和と平和への道筋なのだと思うのです。

ーーーーーーー 《補足》 ーーーーーーー

◉ 原因探しの意義「それを、なぜしてしまったのか・・・」それを分析することに、意味がないというコトではありません。そのプロセスは、とてもとても、重要なプロセスです。
「なぜ、自分がそれを、したのか」を考えるコトで、「意志」を形成した原因がわかります。
自分の中にある、観念や満たされぬ想いに気がつき、自らを知り、認め、変化していくスタート地点です。
しかし、「原因があるコト」と、「意志を持って行為したこと」は、全く異なる二つのことです。
・自分の中の不調和な要素を見つけ、解放していくプロセスと、・自分の意志の結果を、引き受けていくプロセスは、
異なる二つのプロセスです。それを、同時にやっていくのです。
◉ 全ては自分のせい?「全ては自分のせい」ということではありません。
「全ては自分の意志」だ(った)と「覚悟する」いうことです。
それは、いかなる状況に居ようと、そこに居る自分を認めていくこと。
「今・ここ」の自分、等身大の自分を、認めること。
それは、「誰かのせいにしたい・何かのせいにしたい自分」を
まず、認めることから始まるのかも知れません。
それは、決して悪ではない。
その素直な感情を認め、その感情を持つ自分を許し、引き受けるコトです。
きっと、誰もがそこから、始発していくのです。