信頼とは、一つの顔を愛すること

信頼とは、一つの顔を愛すること

僕は、無意識に、信頼とは「相手の全てを知ること」だと思っていました。
相手の全ての側面を、全ての気持ちを、全ての過去を理解すること。
それが、信頼につながるのだと。

でも、それは、信頼ではなく、所有でしかない。
所有することによる、安心でしかない。最近、ようやく、それに気がつきました。

信頼は、時間をかけて育む・・・そう思う人もいるでしょうし、多くの場合、そうなのかもしれません。
しかし、出会った途端、相手のコトを何一つ知らなくても僕らは、信じることができる。
そんな関係性を、きっと経験したことがあるはずです。

「その人のことを、何一つ知らなくても、 その人の過去に、何があろうと
 今、ここにいる、その人を、肯定すること。」

むしろ、信頼とは、その様な力のコトではないでしょうか。
そこに自らを懸ける意志のコトなのではないでしょうか。

人は、多面的な存在です。
色々な顔があり、様々な側面を持っています。
そして、半ば自動的に、人間関係によって、それを使い分けています。

子供の前では母になり、夫の前では妻になり、侵略者の前では戦士に
なりあるときは天使に、あるときは悪魔になる。
僕らは、そういう生物です。

だから、どんなに親しい間柄でも、相手が見せてくれる顔は、
きっと「あるひとつの側面」に過ぎません。
「信頼」というのは、その人が、自分に向けてくれている顔に、「足る」ことなのでしょう。

その人と自分の間に成立した、唯一無二の関係性、
その共奏空間を、自分のリアリティとして、生きること。
その人が、別の人との間で、どういう関係性を築いているのか
その人が、別の場所で、どんな顔をしているのか・・・それは、知る必要がないのかもしれません。

相手が自分に向けてくれた顔は、相手の中に確かに存在する「ひとつの顔」なのです。
それを、肯定すること。
その「ひとつの顔」を、愛すること。
そこに信頼は生まれる。

もちろん、その人のことを、もっと知りたくなるのは、とても自然です。
相手の、新しい側面を知ることは、とても素敵な体験です。
もっともっと、あなたを知りたい。
その「人間的」な欲求を、僕は否定しません。

しかし、もっと持ちたい、もっと知りたいと思う欲望は苦しみの種となることも、
また確かなことだと思います。
親しくなるな・・・というコトではありません。
知りたいと思うな・・・というコトでもありません。
その様に求め合う人間関係がダメだということでもない。
それは、ひとつの、意義ある関係性であることは、確かです。

しかし、「信頼」は、「相手が、見せることを決意してくれた、
その一つの顔」を愛することから、始発するのだということです。
「相手の一つの顔」と、「自分の一つの顔」との間に生まれた関係性を
ちゃんと、生きるコト。

きっと、そこに信頼~「今・ここ」を生きる目の前のあなた、
そして自分を肯定すること~が生まれてくるのだろうと思います。