ファミリー・ヒストリー
家族における、人間関係は、
僕らの原体験であり、「原・人間関係」です。
僕らは、幼少期より、それを丁寧に学んで成長し、
学んだ通りの方法論で、人間関係を創ることになります。
本人が気がついているか否かは別として、
僕らが、「誰か」と取り結ぶ関係は、
「自分が育った家族の、誰かと結んでいた人間関係」の、「コピー」になっています。
そのコピーは、全ての人間関係に渡っていると言っても過言ではありません。
よく知られているのは、夫は父親を、妻は母親を映しているという例。
「いばった父」を持つ娘が、「いばった夫」と結婚するのはよくありますけど、
そんな父がいやで、正反対の「従順な夫」を持つこともあるわけです。
しかし、多くの場合、別の人・・・職場や他の家族・・・と「いばった」権力関係を創ったり、
逆に、自分が「おおいばり!」の毎日をおくることになったりします。
(そして、父親のコトを理解して、長年の不和の和解・・なんてことも、ある)
さて、なぜ、そんな面倒な仕組みになっているのでしょうか。
それは、社会と自分、即ち「セカイとワタシを幸せにしていくため」です。
社会というカタチのないモノを支えるのは、共通の価値基準=常識・・です。
しかし、この「常識」には、耐用年数があります。
例えば、「父親は偉い!」は、一つの時代、常識でした。
その様な家族が、必要だった時代があったわけです。
しかし、その時代は終わりました。
その様な父親がいる意味が、現在社会においては、ない。
だから、「父親は偉い!」という観念は、捨て去られて、
新しい父親像が生み出されていくことになります。
どうやって?
次の世代が、「人生をつかって、その常識の必要性の是非を体感し、要否を選択する」
というプロセスを通じて、です。
・・・具体的に見てみましょう。
上記の通り、「いばった親父」に育てられ子供は、
自分の人生を通じて「いばった人間」との関わりを選択することになります。
①いばった人と関わる ②自分がいばる
のほぼ、二択。
そして、その人生経験の中で、「いばる=立場による威光を振りかざす」ことの
善し悪しを「学ぶ機会」を得ます。
そして、それを自分が踏襲するか否か、選択することができます。
その上で、「不要!」と決断すれば、
彼は、「いばる」とは無縁の人生を選び、フラットな人間関係を築き
フラットな家族を築くことになります。
すると、その次の世代は、フラットな家族体験をし、
よりフラットな社会を形成していくことになる。
これが、「新しい社会を構成する、新しい人間を生み出す装置」です。
この地道な積み重ねによって、社会は刷新されていきます。
新しい時代は、築かれていくのです。
すると、「家族」というのは、
共通のテーマを与えられ、メンバー各自が自分の人生を持って
その「観念の選択作業」にあたっていくワーキンググループみたいなモノ
だということが、見えてきます。
僕らは、家族史の、長い長い、因果の流れの中で、
その観念の歴史を背負い、今ここに、いる。
それは遠い過去の、名も顔も知らぬ人たちのファンタジーではなく、
自分の人間関係、人生観、死生観として、今、僕らの中に存在している。
僕らは、誰もが、自分の中にある「宿命的な観念」に対して、
自分の人生を持って、そのひとつひとつを「検分」しているのです。
僕らが、ひとつ観念を解放することは、
僕らの家族の、世代を超えた取り組みの結果とも言えるわけです。
父も母も、その父も母も、そのまた父も母も、
きっと、今日、僕が向き合っているテーマ(観念)に向き合ってきたんだろう・・・
そう考えると、彼らも、「戦友」に思えますね。
家族関係は、複雑なモノです。
自分の中にある観念が、最も、分かりやすく、相手の中にある。
(そりゃ、原体験なんだから、当たり前なんだけど)
だから、時に、苛立ったり、うまくいかなかったりする。
だけど、それだけ真剣で、むき出しの人間関係が、そこにあるってことです。
こんなに、優れた、学びの場所は、他にない。
家族とは、いかなるカタチであっても、相互贈与の関係なんですね。
互いに、成長し、学ぶ機会を贈りあうんです。
僕にたくさんの学びの機会をくれてありがとう。
我がワーキンググループに愛と感謝を込めて。
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