存在と現象、顕現者としての私

存在と現象、顕現者としての私

最近、僕が感じている感覚について書いてみる。

不思議な感覚を、感じている。
それは、宇宙(ワンネスでも、神でも、集合的な意識でもいいけど)が
自分という場を通じて、体験をしているという感覚。
自分という現象が、その存在のひとつの「現れ」であるという感覚だ。

ちょっと前まで、僕の人生、僕の経験、僕の学び・・という感覚が、当たり前だった。
「指先に刺さった棘の痛み」は、僕のモノ以上でも以下でもなかった。

自意識、エゴを超えたモノがあることは体感していたし、
知識として、このあたりの話を知ってはいたけれど、
思考や感覚の主体としてのは自分は、やはり揺ぎなかった。
(棘は、やっぱり、僕の指先で痛んだ)

ここのところ、いつからか、それとは別の感覚が
ずっとあったことがわかってきたのだ。

自分の経験していること、自分のやってきたこと、
それは「自分のモノ」ではない。
僕が味わっているこの瞬間、悲しみも、喜びも、失意も歓喜も、
「宇宙」が味わっているモノであり、
僕という人格は、「経験」をより具体化するために、
仮想的に作られた「場」でしかない。

この、自分が、自分という個を超えたものである体感、
ある「現れ」としての私という実感の到来は、
なかなか不思議なものだった。

風景と自分が、溶け合うような
風景の一部としての、自分を眺めているような。
肌に感じる風の冷たさ、日の光の暑さ、雨上がりの土の匂い、キビタキの声、
それらが、ありありとリアルにそこにあり、同時に、それらそのものとしての自分がそこにある。

この個人的な感覚の話をシェアしたいなと思ったのは、
ここに立つと、見えてくるものが、ある気がしたから。
その世界観を書いてみたい。

僕らは、時に、人生につまづき、傷つき、惑い、迷い、見失い、
自分や相手を否定的に捉えることがある。
こんなことが起こるなんて、自分は未熟で至らないんだ・・
あんなことを起こすなんて、あの人はダメな人間なんだ・・・

そういうことじゃないんだなーと、僕は、改めて感じている。

もし、アンハッピーな出来事、苦しい出来事が目の前にあったとしても、
それは、あなたの至らなさや未熟さが原因ではない。
あなたが経験し、味わっていることは、宇宙が経験し、味わっていることだから。
その完璧な、過不足ない体験が、ただ、あなたという場において起こったということ。

それは、完璧にオリジナルであると同時に、完璧に普遍的な体験なのだ。
その体験は、あなたという場においてしか、起こり得ず、体験され得ず
しかし、すべての存在にとって、必要な体験だった。

未熟さなど、存在しない。至らなさなど、存在しない。
すべては、必然的な形で起こり、必要な形で体験されている。
体験するために、完璧な出来事と、完璧な体験者がそこにあるだけだ。

痛ましい出来事が起きたと、ニュースが告げる。

その時、僕は、殺し、殺された。あなたは、殺し、殺された。
僕は、あなたは、目撃し、目撃された。
僕は、祈り、あなたは憤り、僕はおののき、あなたは決意し、
僕は恥じ、あなたは希望の光を灯した。

それは、宇宙の経験であり、
その現れのひとつである”わたし”の経験であり、
同時に、私たち(宇宙)のために、
それを経験することを選択した存在があったということ。

僕らは、世界のために涙を流し、世界のために涙を拭う。
命とは、生きるとは、それだけで、そこで何が起ころうと、何を起こそうと
それはひとつの奉仕の形なのだ。

僕が今日生きるということは、あなたが今日生きるということは
この宇宙(僕らすべて)が、その完璧さを、その調和を、その無限を
自ら見つけるための愛の形なのだ。

ふ・・・っと、その感覚は訪れて、また、ふと、消えていってしまう。
残されたのは、美しい秋の風景と、僕の湿った身体。
色づいた桜の葉が、風に舞い、僕は遠い場所にいる、友のことを想った。