善意の暴力から、愛と支援へ

善意の暴力から、愛と支援へ

自分が、誰かに対して
・変えてあげなくちゃ!理解させなくちゃ!教えてあげなくちゃ!
と感じたする。

そして、相手に色々な働きかけを行う。
叱咤し激励し、説得し、用意し、世話をやく・・・

それは、
・その人がより良い状態になれるように
・より安全な道を行けるように
・失敗しないように
・より幸せになれるように
という「善意」から生まれてきてるよね。

とくに、親という立場や、指導者という立場に立つ時、
僕らは、熱意に燃え、善意に燃える。

相手に働きかけ、相手の行動が変われば、
自分の使命を果たしているという充足感を感じるし、
自分は、貢献したぞ!
自分は、誰かの役に立ったのだ!と、思ったりする。

今日は、これが「暴力」だって話。

さて、なぜ、この「賞賛されるべき行為」が、暴力なのだろう。

それは、これらの行為の本質は、
「相手を、自分の思う通りに動かす」ということだから。

実際にあった、
こんなケースを、考えて欲しい。

母親が、娘(といってももう成人です)に対し、
「あなたは、もっと人を思いやらなくちゃいけない!」と
お説教をする。

娘は、むっとする。
それはそうだ。
「あなたは、思いやりがない」と言われているんだから。
「そうだね・・・」なんて、ならない。
すると、母親は、娘の思いやりのなさを、証明しはじめる。
「あの時も、あの時もあなたは・・・」
さらに、自分の説を、補強するために、事例まで出してくる。
「Aさんは、思いやりがあるから、幸せに生きているのよ!
それに比べてあなたは・・・」

これが、ずーっと続いている。
もちろん、このやり取りで、誰もハッピーになっていない。
状況の好転もいっさいない。

***

母親は、娘が幸せになれるように、教え諭しているつもり。
「事実」に気づかせて、よりよい人生を歩んで欲しいと思っているんだ。

でも、実際には、
「母親」という強い立場を利用して、自分の正義を押し付けているだけだよね。

重要なのは、
それが、どんなに善意によるものであっても、暴力は暴力だってこと。

十字軍も、太平洋戦争も、テロも、お説教も、パワハラも、同じ。
本人たちは、口を揃えてこう言うよ。
「私たちは、彼らを、救うためにやっているのだ!!」
「私は、あなたのためを思って言っているのよ!」と。

これを読んでいるあなたも、書いている僕も、
「~してあげよう!」と思い立ち、それが受け入れられない時には、
必ずこの言葉を口にする。
「こんなに、やってあげたのに」「あなたの、ためなのに」。

つまるところ、
「こちらの善を、相手に押し付けること」のゴールって、
勝利ってことだよね。
相手に飲ませたら勝ち。突っぱねられたら負け。
だから、途中で、意地になってしまうわけだ。
「相手のため」に始めた試みは、必ず、ここに帰着する。

・人を変えようとする試みは、
”すべて”、支配と暴力の欲望を隠している。

これは、胆に命じておこうと思った。

親子、夫婦、上司と部下、すべての関係において、同じ。
それが良いとか悪いではなく、
また、それをするべきか、どうか・・・の話でもない。

「相手に対して、相手の意に沿わぬ力を行使する」という行為は、
どんなケースにおいても「暴力」なんだ。

そもそも、本当に思いやりがある人は、誰かに対し、
「あなたは、思いやりがない」なんて、言うわけない。

上のケースでは、母親は、「思いやりがない自分(という自己評価)」を
どうしても受け入れられなくて、
それを投影して、娘に八つ当たりしてます。

「相手を変えたい」という思いは、
自分自身と向き合うことへの恐れの裏返し。
「変えたい相手」は、自分の投影。
変えたい人がいるのなら、自分を見つめることが、スタート地点。

支配と暴力の先に見えてくるのは、終わらない戦い。
負けたら、次は、勝ってやる・・・!
あの恨み許すまじ・・・ってことが、繰り返されていく。
これが、「カルマ」ってことだよね。

もうやめよーこれ。
これは、もう、さんざんやってきた。
そして、もう十分に傷つけあったよ。

この構造を、終わらせてく世代になろう。

人との間に、暴力でなく、支配でなく、
愛と支援の関係を作り出していく世代になろう。
新しいパラダイムを生きよう。
そして、新しい時代を創ろう。

じゃあ、実際に、どうやって、人と関わる?
どうやって、誰かの役に立てる?

それはシンプルなことだ。
僕らにできることは、ただ「場」を提供することだけなんだと思う。

・相手が必要とする時に、助けを求めてきた時に、
相手が自分の中から答えを見つけ出すサポートをすること。

・相手が、自ら気づき、自ら見つけ、自ら学ぶための、
機会を作り出すこと。

これだけで良いのだと思う。
自分が欲しい支援の形を想像してみたら
きっと、よくわかる。

僕らは、自分で自分の人生を生きる権利を持っている。
相手も、相手の人生を自分で生きる権利を持っている。
自分のペースで、自分のタイミングで、
自分のやり方で、学んでいく権利を持っている。

そこに敬意を持った時、一方的な介入なんて、できやしない。
相手がどんな存在であろうと、
そこにどんな関係性があろうと、

相手は、相手の人生を生きていて、
それは、その人だけが、生きることができるものだ。

素晴らしいことに、僕らは一人ではなく、
誰かと支えあって生きている。
そうでないと、生きていけない場所にいる。

だからこそ、
本当の支援を、学ぶ環境は、そこらじゅうにある。

利害関係のある関係性こそが、
愛と支援を学ぶ最良のステージになるだろう。
夫婦、親子、職場の上司と部下・・・

その中で、僕らは、
自分と相手を、認め、許し、愛していくことを学ぶだろう。

すぐには、できないよね。
あまりに慣れ親しんだ、方法論だ。

それに、支配も暴力も、する方は、止むに止まれずやっている。
追い詰められているから、それをしてしまうわけだ。
自分のことを鑑みれば、それはよーくわかる。

まず、そんな自分を認めることがスタートだよね。
そして、自分を追い詰める自分に気がつき、
自分を癒していくことになる。

上のケースの母親も、人を傷つけたいわけでも、
誰かを否定したいわけでもない。
ただ、自分を許せていないだけ。


どんな自分であっても、それが等身大の自分だからね、
自分を、許していこう。

僕らは、一歩いっぽそこに近づいている。
生きるということは、そこへ向かうことだから。

みなさん、共に行きましょう。
そんな仲間と出会え、互いに支えあいながら、進んでいけていることを、
僕は、本当に、嬉しく思います。