バリと愛のセンセーション

バリと愛のセンセーション

バリの旅行において、最も大きな経験のことを、書こう。
僕は、バリ旅行を1日早く切り上げて帰ってきた。
なぜか。

帰ってきてほしいと、言われたからだ。
パートナーからSOSを受けたからだ。
正直なことを書こう。
そのオーダーを受けた時、僕の中には、こんな声が響いていた。

「どうして、僕は、いつも自分の自由を謳歌しようとすると、
それを許さない出来事が、起こってしまうのだろう」

一昨年、そして去年、僕は、その人を支えることに
多くの時間とエネルギーとを、費やした。
時間に余裕があったため、僕はそれができたし、

セラピストである自負も、そうさせた。
それは、素晴らしい日々だったけれど、
同時に、僕は疲れ果て、人生の主の座を追われたように感じ、
方向性を見直さねばならないことを、理解した。
そして、自分の中にある、ある側面に気がついた。

それは、「自己犠牲」。
自分を犠牲にして、相手を支えるという構造、
自分を押し殺して、相手の期待(と自分が思ったモノ)に
応えるという構造は、必ず、破綻する。
自己犠牲とは、相手の人生を背負おうとする試みだ。
時に、それは、美しく響く。
しかしそれは、相手を、自分の人生を自分で背負えない弱者であると
ジャッジしてしまうことに他ならない。
相手の変わっていく強さと、受け入れる力を、
信頼しないことに、他ならない。

だから、僕は、自分自身の犠牲にすることを、
「もうやめる」と、宣言した。
それは、時に、人を傷つけ、
また、自分が傷つくことを、選択するという、宣言だった。

それが去年の年末のこと。
僕にとって、それに気がつくことができたのは、
ものすごく大きな変化だった。
僕は、僕の人生を生きていて、他のどんな関係の相手であっても、
その人は、その人の人生を生きている。
その人がどんな場所にいて、何を経験していても
それは、その人がその人の人生で選択した、
その人にとって必要な経験なのだ。

僕はそれを理解し、
「不必要な干渉をやめ、僕は、僕の人生を生きよう!」と、思ったのだ。

さてさて、経緯が長くなったけれど、
だからこそ、僕は、落胆したのだ。
僕は、変化したのに、なぜ、現実は、変わらないのか?と。

その時の、僕の素直な心境メモを掲載しよう。
遠慮せずに、自分の人生を優先すると決めた矢先に、
それを許さない出来事があって、
もう自分を犠牲にしないと決めたのに
感情的に、傷つけられ、振り回されて。
僕の人生は、どこにいってしまうのだろう。

僕は、悲しみも、憂いもない、
困惑させ、混濁させるもののない世界へ
どうして、いけないのだろう。

僕は、バリの田園風景をバイクで走りながら、
ある種の失意の中にあった。

時に、相手を責め、そんなエゴイスティックな自分を責め、
ホテルに帰ると一人、自分と向き合った。
旅は、いつだって、学びを連れてくる。
今回は、これだな・・と思った。

僕は、自分の内部で思考が、感情が、動き回るのを、ただ眺めた。
これが起きた原因や理由を探すのではなく
代わりに、失意と怒りと悲しみと、心配と不安と、恐怖を、味わい
思考が右往左往するのを、眺めた。
ただ、”それ”が満足するのを待った。

ベッドの上で、一人、待った。
すると、前触れなく、突如、強いエネルギーが
自分のハートから溢れてくるのを感じた。
何かものすごい温かなモノがこみ上げてきた。
エネルギーなので、言葉にしにくいけれど
敢えて言葉にするのなら、
それは、懸命に生き抜こうとしている魂への惜しみない賛辞であり、
その存在そのものへの感動であった。
懸命に生き抜こうともがく魂の強さ。
そして、そのありのままの姿への、深い許容と敬意。

その時に、殴り書きした文章を乗せておこう。

「あなたが精一杯、あなたのやり方で、
必死で、生き抜こうとしていること。
懸命に、懸命に、そして不器用に。
時に、周りを傷つけてしまっても、
命がけで生きているその姿に、僕は最大の賛辞を送りたい。
本当に、本当に、あなたは、よくやっている。
あなたは、本当に、よくやっている。」

熱いものは、涙になって、こぼれ落ち、
僕は、ひとり、咽び泣いた。

僕は、自分が、自分を生きるという一言の中で、
ずれてしまっていた自分に気がついた。
自分の大切な人が、急に倒れたとして、
その時に、「迷惑をかけないでほしい」
つまり、自分の自由と人生の邪魔をしないでほしい・・
そう感じたとしたら、それは、何かを掛け違えている。

それは、自由ではない。
その先に見えるのは、豊かさではない。
そこにあるのは、貧しさだと思った。

もちろん、このことに気がつくために、
僕は、この道を経由するしかなかったわけだけれど、
僕はずれていたんだと、実感した。

それを、考えた時に、出てきたのは、
内田樹氏が、著書『修行論』で書いていた、
「天下無敵」の話だった。

自分の眼の前にいる人を、
行く手を遮るもの、自分の道を拒むもの=「敵」とするなら、
僕らは、自分の前方から歩いてくる人すらも、敵とせざるを得ない。
天下無敵とは、敵を作らない技術である・・・と。

そう、僕は、無意識に、自分の眼の前の状況、
自分に与えられた出来事を、
「自分の可能性を毀損するもの=敵」だと、定義していた。
そうではないのだ。
それは、敵ではない。
その状況は、敵ではない。
この状況は、僕の人生を阻むものではないのだ。
それは、僕の人生を拓くものなのだ。
そんなことが、腹に落ちた。

(文章にすると長いけど、実際はコンマ一秒でね)

起きたことは、必ず、自分の人生を拓くキーなのだ。
僕が信じなくて、いや、確信していなくて、
僕はそれを、教えられない。
感情的に傷つき、失望し、天を仰いでもいい。
それでも、もう一度、前を向こう。
そして、人生が与えてくれたギフトを、手に入れよう。
それは、たとえ自分が望む形でなかったとしても、
今、人生が、宇宙が、僕に与えてくれる、
最大のギフトなのだから。

***

起きたことを、受け入れること。
ありのままを、受け入れること。
無条件の許容。

僕は、それが「愛」なのだと、思う。
それは、関係性のネーミングであると同時に、
あり方、態度についての、名称なのだ。

愛というのは、愛という状態にあることであり、
愛という態度で世界に、接するあり方のことなのだ。
この日、この瞬間、
僕は、少しだけ、ほんの少しだけ、愛がわかったのだと思った。

僕は、ほんの少し、進めたのかもしれないな、思った。
僕は、きっとまた、見失ってしまうだろうし、
すっかり忘れてしまうのかもしれない。
でも僕は、きっとまたここにたどり着けると、わかった。
この、愛と許しの地平に。

人生には、時々、その先を垣間見せてくれる瞬間がある。
この出来事も、きっとそうなのだろう。
人は、きっと、一人の人を愛することを通じて、
世界を愛することを学ぶのだ。
愛の存在になることを、学ぶのだ。

僕は、これまで愛した人たちを通じて
そのことを、学んできた。
出会いを通じ、暮らしを通じ、別れを通じて。
僕はいつだって
その時のパートナーと、懸命に、
このテーマをco-workしてきたのだ。

必ず、そのテーマに向き合うに相応しい人が、そこにいた。
もちろん、それは男女関係にとどまる話ではない。
必要なことを、必要な人と、必要な期間やりきって、
きっと僕らは進んでいくのだ。

僕は、それを真っ直ぐやってきた自分と、
それを一緒に取り組んでくれたパートナーたちに
心から感謝をしたい。

いつだって、必要ことは起こる。
時に振り回されながら、時に傷つきながら、
それでも、僕らは歩いていく。
その中で、ひとつひとつ、一歩一歩、
僕らは、愛に近づいていくのだろう。

そしていつか、本当に、そんな生き方が
できるように、なるのだろう。

その日まで、また、等身大の日常を生きていこう。
失敗しながら、困ったり悩んだりしながらね!

ありがとうバリ。確かに、ギフトは受け取った!