コンフォートゾーンを出る

コンフォートゾーンを出る

昨日、カウチサーフィンで、
大阪在住のブラジル人のアーティストの方が泊まっていった。
彼の作品を見せてもらいながら、夜遅くまで話をして、
朝、彼を送り出した。

彼との会話の中で、印象に残ったのが、
コンフォートゾーンという言葉。

彼の作品は、「見る側」が参加し、体感する作品なんだけど、
作品への参加は、時に、勇気が求められる。
普段やらないこと、普通ならNGとされていることに
参加することになるのだ。

普段、自分がいる世界、場所、あり方、それが、コンフォートゾーン。
それは安全地帯。
そこに居れば、想定の中で、物語は進んでいき、日常があり、
ささやかな逸脱も、また、平穏への心地よい刺激となる程度。

そこから、出るのは、勇気が必要だ。
なぜなら、傷つくことになるから。
人にとって傷つくという体験は、自分の価値観が否定される経験に他ならない。
ゆえに、安全地帯を出てしまえば、傷つくことは、避けられない。

だけど、そうやって踏み出していくことなく、
僕らは、生きられないように、設計されている。
僕らは、自由を求める生物だからだ。

安全地帯には、条件付けがあり、自由には制限があり、
そこには必ず停滞が伴う。
そして、僕らは、それを、苦しみと感じる。

”ゴーストがささやく”のだ。
超えていこうと。出ていこうと。

「小さな私の世界」 から 一歩踏み出すこと。
それを、支援すること。
アートは、そのために存在するのだ。

まず、普段自分が、小さな世界にいる・・・ということを、
自覚させることが、始発点になる。

僕らは、普段、自分がコンフォートゾーンにいることを、意識しない。
それを意識する瞬間とは、外部に触れる経験だ。

すなわち、想定外であり、思ってもいない体験であり、
それは、気持ち悪く、違和感があり、恐ろしく、時に、強烈な体験。

それを通じて、はじめて、僕らは、
自分が、自分の世界にいることを、知る。

アートとは、額縁をつけることなのだ。
その内側にいるのだと、知らせること。
価値観の揺らぎを、内的な切迫を、感情の震えを通じて、
自分が、額縁の内側にいることを、知らせるのだ。

そんな話をしていて、
カウンセリングと同じだと、改めて感じた。
とっても嬉しくって、嬉しすぎて、なんだかうまくそこら辺を、
説明できなかったけれど。

自分が、自分の閉じられた世界にいることに気がつき、
そこから踏み出していくことを、支援する。

それは、僕ら、カウンセラーがやっていること、そのものだ。
カウンリングルームと、展覧会場は、映画館は、一冊の本は、同じモノ。

「千と千尋の神隠し」のように、
入り口と出口の間に、知らない世界がある。
そこに触れるのだ。

もちろん、その世界は、自分自身の内なる世界であって、
入り口を入る時、僕らは、自分の心への旅を開始する。

自分の旅、心へと、触れたことのない領域へと、触れる時、
そこには、痛みがある。
今まで、触れたくなかった場所に、触れることになるから。
見たくなかったモノに触れるから。

でも、そこには、同時に、歓喜がある。
恐れを捨てて、飛び込む時、一番欲しかったモノが見つかるだろう。
なぜなら、人が恐れるモノは、最も欲するモノと相違ないのだから。

旅をして、自分の想定の外側に触れる時
僕らは、同じだけ、自分の中の見知らぬ自分を、開拓するのだ。

アート、哲学、科学・・・

なんどもなんども、すべては、同じと思ってきたけれど、
あと千回、納得しても、まだ僕は感動するんだろう。
みんな、同じ道をゆくのだと、同じ場所を目指すのだと、
その一致に触れた時、僕の心は踊る。

同じものを、見ているね

違う道を歩いてきたのに、同じものを見ていると伝え合って
同時に、互いの想定を超えるモノを与え合う時、
僕らは、仲間になる。

旅の仲間。

そんな仲間は、たった1日の出会いでも、数時間の語らいでも、
友達なのだ。その出会いは、ひとつ、世界を豊かにするのだ。

僕も、作りながら
内なる旅を続けていこう。
そして、いつだって、見知らぬ自分に出会っていたい。
いつだって、まだ見ぬ明日に、胸を躍らせていたい。

時に、羽を休めながら、それでも、羽ばたいて、
見知らぬ街を、丘を、空を超え、
見たことのない世界を、見てみたいと思うんだ。