わからないと言われよう

わからないと言われよう

相手にとって、理解不能な人間であること。
それは、相手の価値観の「外部」にあるということです。
それは、自分が相手にギフトを与えられる機会です。

相手が、自らの価値観という檻を壊し、
自らを新たな地平に拓いていくための、契機をプレゼントすることです。
もちろん、相手は、そこに抵抗を感じることもあるでしょう。
あなたは、常識的な話をされ、説得され、
コントロールしようとされるかも知れません。

しかしそれは、「自分が機能している瞬間」だということです。
相手の価値観の外部に立ち、 相手がまだ気付いていない自由を、
その人の中にある広い可能性を 鏡としてみせてあげているということです。

だから、外部から、常識的な尺度で図られることを、楽しみましょう。
コントロールしようとする人を楽しみましょう。
理解されないことを、楽しみましょう。

それは、自分の生が、役立っている瞬間そのものだからです。
そして、自分は、ただ、自分であることを楽しむ。

僕らは、自分の意見で人を動かすことはできませんが、
自分の姿で人を動かすことができます。
そして、自分が相手の価値観の内部に入って、

つまり、譲ったり、自分を下げたり、寄せたりして、
自分のギフトを毀損しないようにするのです。

自分を曲げる時、自分を疑う時、自分を裏切る時、
それは、自分のギフトを放棄する時です。

僕らは、自分らしくあるその瞬間、
自分の存在ソノモノを通じて、世界に貢献できる。

だから、自分が自分らしく居るコトは、一つの責任なのです。
誰にとっても外部でいましょう。
わからないと言われましょう。
時に、笑われましょう。
いつだって、サプライズな存在でいましょう。